胡乱の山犬第七回

  7

 狼の夢をみた。
 真っ白な狼が、私を見ている。私は、それを神と思う。狼は、私から視線を逸らすと、山のなかに消えていく。
 私はずいぶん老いた。吉兵衛は五年も前に死んだ。いや、もっと前だったろうか? 年を数えなくなってだいぶたつ。とにかく吉兵衛は死んだ。吉兵衛の孫たちも成長した。次男の嫁が「家族でないものをいつまで敷地の端に棲まわせておくのか」と、いっているのを耳に挟んだ。次男の嫁は、私を嫌っている。もう数十年のつきあいだが、未だに正体不明の老人だと思っている。もっとも、私が胡乱な老人であることは事実であろう。
 数年前に浦賀に外国から黒船がきたときいた。ここらが海の向こうの異人たちと戦場になったらどうするのかと私に話したのは、吉兵衛のひ孫――十歳の女の子、うめ、だ。どうもしないよ、昔はいろいろ旅したが、今はもうここから動けないのだからね。誰が来ようがここにいるしかない。私はうめにいった。それで結局、黒船はどうなったのか。しばらく誰もここにはこないのでわからない。市にもいっていない。母屋のほうにもいっていない。私はずっと独りだ。独りであることは特に苦にもならないが、ここいて毎日、案山子たちと森を眺めていると自分の年齢がわからなくなる。
 私はじっと制止している。死んでもいない、生きてもいない。月がじりじりと空を動いていく。あれが「時」だ。「時」を感じたければ月の周回を見ればいい。
 深い夜、ガサガサと何かが歩く音がする。猪か、狸か、狐か。兎か。かつて私は吉兵衛に与えられた一帯を完全に支配し、守護していた。私は獣たちに勝利を収めていた。だが、今はもう劣勢だ。次第に私は見回りにでなくなり、雑草は生い茂り、私の並べた案山子たちの脇を狸がすり抜けるようになった。私の身体の調子が悪くなっていったのだ。人間はいつでも、一時的な勝利を束の間味わいはするが、どのみち最後には負ける。虚無の穴の縁を周回し続けた私だが、結局はその穴に落ちていく。
 音が消えていく。虫は合唱をやめ、葉擦れの音もしない。静けさの圧力とでもいうものが静かに野原に現れる。ああ、こんな夜は山の神がおでましかもしれぬ。私はようやく身を起こすと、壁に立てかけてある弓矢を手に、あばら家から月光の降り注ぐ野原にでた。すると、ふと自分がどこにいるのかさっぱりとわからなくなった。

        了

胡乱の山犬

Synopsisあらすじ

武蔵国のある集落――。
「殺生」の意味がわからない子供であった私は、罰として「オイヌ穴」に入れられた。
そこから村を抜け出た私と、私の中に居座る《残虐》の、これはとある奇妙な物語。

Profile著者紹介

恒川光太郎(つねかわ こうたろう)
1973年東京都生まれ。
2005年「夜市」で日本ホラー小説大賞を受賞。同作単行本はデビュー作にして直木賞候補になる。2014年『金色機械』で日本推理作家協会賞を受賞。その他の著書に『スタープレイヤー』『ヘブンメイカー スタープレイヤーⅡ』『無貌の神』などがある。

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