四神の旗第六回


        * * *

「これはなりません」
 天皇の勅が書かれた紙を読み終えると、多治比池守(たじひのいけもり)が声を震わせた。
「令によれば、天皇の母上は皇太夫人と呼ぶべきです。大夫人などとは......」
「しかし、天皇のご意向なのですぞ、池守殿」
 武智麻呂は口を開いた。
「天皇といえども、令を犯してはなりませぬ。そうではありませんか、左大臣殿」
 多治比池守は助けを求めるように長屋王を見た。
 長屋王は腕を組んで座したままだった。
「池守殿の言うとおりだ」
 代わりに答えたのは舎人親王(とねりしんのう)だった。武智麻呂は唇を舐め、長屋王の反応を見守った。
「例外を認めれば、それがしきたりになり、令はどんどん無視されていく。律令をまとめたのはそなたの父親ではないか」
 新田部親王(にいたべしんのう)が武智麻呂を睨んだ。
「しかし、首様の母上への想いを知る身としては、首様の切なる願いを無下にはできかねます」
 武智麻呂は答えた。
「藤原の身内だからそう申すのであろう」
 武智麻呂は声のした方に顔を向けた。みなが顔を背け、だれが発した声かはわからなかった。
「身内だというのならば、首様も安宿媛様も我が身内にございます。しかし、そのようなつまらぬことで申し上げているのではありません。首様は長年、このことに関して思案しておられたはずです。そして、玉座に就かれたのを機に、母親に相応しい尊称を与えると勅を出された。その首様の気持ちに、令にはないという理由だけで臣下が異を唱えるのはいかがなものかと申しているのです」
 武智麻呂の言葉にうなずく者たちがいた。この一年、長屋王のやり方を快く思わぬ者たちを手なずけてきた。
「令は令ではないか」
 多治比池守が声を荒らげた。
「落ち着きなさい、池守殿」
 長屋王がやっと口を開いた。
「しかし、左大臣殿」
 多治比池守が口を尖らせた。新しい天皇は即位すると同時に長屋王を左大臣に引き立てたのだ。
「首様のお気持ちは痛いほどよくわかるではありませんか」
 長屋王の涼やかな目が議政官たちを見据えている。だれも言葉を発しようとはしなかった。
「しかしながら、令は令。これを天皇御自らが違えられては示しがつきません」
 多治比池守をはじめとする数人が、我が意を得たりとばかりにうなずいた。
「とはいえ、勅は発せられてしまいました。令に従えとなれば勅に反することになり、勅に従おうとすれば令に反することになる。困りましたな」
 長屋王は首を傾げた。
 武智麻呂は頬が緩みそうになるのをこらえた。
 かつての長屋王と今の長屋王は違う。驕りが長屋王に隙を与えている。
「ならば、どうしようと言うのです」
 多治比池守が痺れを切らしたというように口を開いた。
「これは臣下が決められることではありません。我ら、朝堂の意見をまとめた上で奏上するのがよろしいかと思います」
「奏上とはつまり、令に反するのか、勅を反故にするのか、首様ご自身がお決めになるべきだと迫るのですか」武智麻呂は言った。「それでは、我らはなんのための臣下ですか」
 宮子に大夫人の尊称を与えたくて必死になっている――長屋王にはそう思わせなければならない。
「しかし、これは臣下には決められません。すでに令に反する勅が出されているのですから」
「そのような奏上をすれば、首様はどう思われるでしょう」
「天皇といえども、すべてが思いのままになるわけではない。それをわきまえることでしょうね」
 長屋王が言った。
 天皇を軽んじているわけではない。ただ、一度定められた法は断じて守られなければならない。それが長屋王の信念なのだ。
 その信念が長屋王の強みであり、弱みでもある。
 横顔に視線を感じ、武智麻呂はそちらに顔を向けた。朝堂の隅にいる房前が武智麻呂を睨んでいた。
 いずれ、おまえにもわかるときが来る――武智麻呂は微笑み、房前の視線を受け流した。

        * * *

「まことに長屋王がこの奏上を認めたというのか」
 天皇の頬が引きつっている。房前は口に溜まった唾を飲み込んだ。
「さようにございます」
「なぜ長屋王がわたしと母上にこのような仕打ちをするのだ」
「左大臣はそのようなお方でございます」
 武智麻呂が言った。房前は兄を睨んだ。
「お慎みください、兄上」
「よい。武智麻呂、それはどういうことだ」
「左大臣は、法はなにがあっても守られるべきだとお考えです。たとえ、天皇であっても、法を犯すことはできぬと」
「たかが母上をどう呼ぶかという話ではないか」
「それでも、左大臣にとっては法は法なのです」
「法はわたしの情より勝ると」
 武智麻呂がうなずいた。
「しかしながら、勅もまた法に準ずるもの。首様の情を受け入れれば令に反し、情を切り捨てれば勅に反する。自分ではどうにもできぬので、首様にすべてを押しつけたというところでございましょう」
「兄上――」
 身を乗り出そうとした房前を、天皇が遮った。
「そなたは黙っておれ、房前」
「は――」
 房前は頭を垂れた。
「なんとずる賢い男だ」
「ずるいと言うよりは、左大臣の立場としてはそれしかできぬというところでございましょう」
 天皇が首を振った。
「そうではない。勅に従え。そう言えばいいだけのことだ」
 天皇は両の手で拳を握っていた。その拳が細かく震えている。
「そうできないのが左大臣なのです。さて、いかがなさいますか、首様。朝堂の奏上に従いますか、それとも勅を優先させますか」
「そなたはどう思う」
 天皇が訊いた。
 激情に駆られても、それに流されずにいられるのは、体に流れる不比等の血のせいだろうか――房前は思った。
「首様は天皇。やりたいようにやればよいのです。しかしながら、それでは臣下たちの反発も大きくなりましょう。首様が目指す国作りに支障をきたすやもしれません」
「では、わたしはどうしたらよいのだ」
「わたしに考えがあります」
 房前は武智麻呂の言葉に鼻を鳴らした。もったいぶってはいるが、最初からすべてを見通していたのだ。事の解決策も、前もって用意しておいたに違いない。
 こたびの騒ぎを起こした目的は、天皇の心に長屋王への不信の種を蒔くこと。それはもう達せられた。
「令に反せず、勅にも反せず。ならば、皇太夫人と大夫人、両方の尊称を用いればいいのです」
 天皇が眉を吊り上げた。
「わかるように申せ」
「書面上では皇太夫人と記し、口にするときは大夫人――いえ、大御祖とするよう、新たな詔をお出しくださいませ」
 おおみおや――天皇は武智麻呂が口にした言葉を繰り返した。天皇の祖先、あるいは天皇の母を指す言葉だ。
「長屋王たちも、それならば納得するでしょう。ただし、勅はすぐに出してはなりません。朝堂ではそれらしいことを口にする連中も、いざ、首様の怒りを買ったかもしれないと考えると、安心して寝ることもできないでしょう。しばらくの間は、連中を怯えさせてやるのです」
「武智麻呂。よい考えだ。気に入ったぞ」
「もったいなきお言葉」
 武智麻呂が頭を垂れた。
 天皇といえども、すべてが思いのままになるわけではない――長屋王は朝堂でそう言い放った。
 やり方さえ考えれば、天皇はすべてを思いのままに動かせる――武智麻呂は天皇にそう教えている。
 どちらが正しいのかと問えば、長屋王に気持ちが傾く自分がいた。

 朝堂に向かう途中で房前と出会った。
「急ぎ参れということでしたが、なにごとでしょう」
 房前が口を開いた。
「おまえも呼ばれたのか」
 武智麻呂は眉を吊り上げた。
「はい。長屋王様からの使者が参りました。兄上はなにもご存じないのですか」
「ああ。皆目見当もつかん」
 問い詰めてはみたが、長屋王が遣わした使者はなにも知らないようだった。ただ、一大事が起こったため、至急朝堂へ参られよ、議政官が一堂に揃って話し合わねばならぬことがある、そう伝えられただけだ。
 朝堂には長屋王をはじめとする議政官たちが勢揃いしていた。
「これは、遅れてしまったようですな。申し訳ございません」
 武智麻呂は一同に頭を下げた。
「これで全員が揃いましたな」
 長屋王が口を開いた。
「左大臣殿、一大事とはなにごとですか」
 大納言の多治比池守が身を乗り出した。
「陸奥(むつ)より知らせが届いたのです」長屋王は全員の顔に視線を走らせた。「陸奥大掾(だいじょう)、佐伯児屋麻呂(さえきのこやまろ)が蝦夷(えみし)に殺されたとのことです」
 ざわめきが起こった。
「それは確かなのですか」
 武智麻呂は訊いた。
「間違いのないこと。海道の蝦夷たちが反乱を起こしたのだとか」
「反乱ですと。なんという者たちだ」
 巨勢邑治(こせのおおじ)が怒りをあらわにした。
「蝦夷が反乱を起こしたのは確かだとして、どうなされるおつもりですかな」
 長屋王を糺(ただ)したのは大伴旅人(おおとものたびと)だった。
「鎮圧せねばなりませぬ。反乱を起こすというのは、天皇に反旗を翻すということに他なりません。放っておけば、天皇の権威は地に落ち、あちらこちらで反乱の火の手があがるやもしれません」
「軍勢を派遣なさるおつもりか」
 武智麻呂の隣で房前が言葉を放った。長屋王がうなずいた。
「では、だれが軍勢を率いるのです」
 房前の言葉に長屋王は応じなかった。他の者たちも口を閉じている。
「長屋王様――」
 焦れたというように房前が追い打ちをかけた。
「わたしは、宇合殿が適任かと思っているのですが」
 思いがけない名を耳にし、武智麻呂は房前と目を合わせた。
「しかし、宇合殿は軍勢を率いた経験はないのではありませんか」
 大伴旅人が言った。
「確かに、宇合殿は軍勢を率いて戦ったことはありません。しかし、兵法には通じています。よく、唐の書物をお読みになっておられる」
 武智麻呂は腕を組んだ。遣唐使として入唐したせいか、宇合は唐の文物に心を奪われすぎるきらいがある。武智麻呂や房前ならわかるが、なぜ、長屋王はそれを知っているのだろう。
「なるほど。それならば、宇合殿が適任ですな」
 阿倍広庭(あべのひろにわ)が膝を打った。
「異論がなければ、宇合殿を持節大将軍に任命し、陸奥へ派遣しようと思います。軍勢をどうするかは、新田部様と宇合殿でお決めになればよい」
 長屋王は新田部親王に目を向けた。
「承知した」
 新田部親王がうなずいた。
 武智麻呂はこの場にいる者たちすべての顔に目をやった。
 みな、自分の一族がやっかいな役目を押しつけられなかったことに安堵している。
「武智麻呂殿、それでよろしいかな」
 長屋王が言った。
「異論はございません」
 武智麻呂は答えた。

        * * *

「なぜ宇合なのです。兵法には詳しいかもしれませんが、それは書物を読んだだけのこと」
 房前は不満をあらわにしていた。
「舎人様、新田部様の様子を見るに、議政官が集まる前に、すでに宇合を派遣することが決まっていたに違いない」
 武智麻呂は言った。
「それはわたしも察しております。なぜ、宇合なのですか」
 なおも言いつのる房前には答えず、武智麻呂は足を止めた。長屋王がなにを企んでいるのか、考えに考えても答えは出ない。
「兄上――」
「宇合はどこにいるかな」
 房前を手で制して訊いた。
「家でありましょう。あるいは、妻の家か」
「どの妻の家だ」
「そこまではわかりません。宇合と話し合われるのですか。ならば、わたしも――」
「おまえは内臣としての務めを果たせ」
 武智麻呂は言った。房前が不満そうにうなずいた。
 武智麻呂は政の方面から、房前は皇室から長屋王の企みを探る。言葉を費やさずとも理解し合えるのはやはり血の繋がりだろう。
 房前と別れ、宇合の邸へ足を向けた。宇合は書物を読んでいた。
「兄上、いかがいたしました」
「おまえは知っているのか」
 武智麻呂は宇合の目を見据えた。
「なにをですか」
「陸奥で蝦夷が反乱を起こした。鎮撫するために軍勢を送るが、その軍勢をおまえが率いるのだ」
 宇合は瞬きを繰り返した。
「わたしがでございますか」
「そうだ。長屋王がそう決めた。なにも聞いていないのか」
「はい」
 宇合は素直にうなずいた。
「長屋王はおまえが兵法に詳しいと言っていた。唐の書物をよく読んでいると。なぜ、長屋王がそんなことを知っているのだ」
「佐保(さほ)の邸にある書物を読ませていただいているからです」
 武智麻呂は弟をまじまじと見つめた。
「麻呂だけでなく、おまえも佐保に通い詰めているのか」
「通い詰めているというほどではありません。書物を借り、読み終えると返しに行き、また借りて戻ってくる。それだけです」
「佐保には唐帰りのおまえが読みたくなるような書物があるのか」
「遣唐使が持ち帰ったものや、新羅(しらぎ)の使者が献上したものなぞ、数多くあります」
「佐保で、長屋王となにを話しているのだ」
 武智麻呂の問いに、宇合はうんざりしたような表情を浮かべた。
「書物の内容に関してです。政の話はしませんよ」
「なぜ、式部卿のおまえが持節大将軍として陸奥に行かねばならないのだ」
「わかりません。あのお方と政の話はしないのです」
「おまえが行って、蝦夷たちを征伐できるのか」
 武智麻呂は言葉を和らげた。
「やってみなければわかりませんが、できるでしょう。蝦夷は烏合の衆。わたしには軍勢があり、兵法も学んでおります」
「蝦夷を征伐して都へ戻れば、おまえには褒美が与えられる」
 武智麻呂は顎をさすった。長屋王の企みがかすかに見えたような気がした。
「おまえは正四位上だったな」
「それがどうしました」
「都へ戻れば、従三位下が叙位されるだろう。公卿に列するのだ。長屋王の狙いはそれかもしれん」
「わたしが公卿になれば、藤原の力が増します。長屋王がそんなことを望むとは思えませんが」
 武智麻呂は宇合の言葉には応じず、思案に耽った。
 房前は内臣に任じられ、政の場を去った。藤原の者で朝堂に座があるのは武智麻呂だけだ。そこに宇合が加われば、確かに藤原の力は増すだろう。
 だが、宇合が武智麻呂の意に従わないとすればどうなるか。
 すでに房前は武智麻呂のやることなすことに不満の色をあらわにしている。氏上たる自分に従おうという気がないのだ。
 宇合とて不比等の息子。欲も野心もあるだろう。
 麻呂も佐保の邸に入り浸り、酒と箏に淫している。
 長屋王は宇合と麻呂を手なずけようとしているのではないか。つまり、兄弟の絆を断ち切ろうとしている。房前だけではなく、宇合や麻呂も武智麻呂に背を向けたら......。
「兄上、どうなされました」
 宇合の声に我に返った。
「なんでもない。わたしと房前は反対しようとしたのだ」
「わたしの持節大将軍をですか」
「だが、ほとんどの議政官は長屋王に従った」
「そうでしょうね」
 宇合は涼しい顔で微笑んだ。武智麻呂はその手を取った。
「無事で帰ってくるのだぞ」
「実際に戦場で刃を交わすのはわたしではありませんよ、兄上」
「それでも、無事に帰ってくるのだ。わたしには......藤原にはおまえが必要だ」
「兄上――」
 宇合は当惑した目で武智麻呂を見た。

        * * *

 資人たちが忙しげに立ち働いていた。安宿媛が難しい顔でその様子を眺めている。
「なにがあるのですか」
 房前は安宿媛に声をかけた。
「兄上、よいところにいらっしゃいました。ちょうど、お話ししたいことがあったのです」
 安宿媛は顔をほころばせると、房前を邸の中に誘った。
「資人たちが忙しそうにしておりますが」
「ここにどれほどの食料が蓄えられているか、確かめさせているのです」
 安宿媛は朗らかに答える。
「それはなぜですか」
「悲田院(ひでんいん)に運ばせるためです」
 前の年、安宿媛は興福寺に悲田院を建てた。安宿媛に乞われてそのために奔走したのは房前だった。
 福田(ふくでん)という仏の教えのひとつに感銘を受けた安宿媛が貧しき者たちに施しをするための施設として悲田院を設けたのだ。良き行いの種を蒔き、それを収穫する田とでもいえばよいだろうか。
「悲田院の食料が足りなくなりそうなのです。兄上も家にある食料を分けていただけませんか」
「すぐに家人に食料を運ばせましょう」
 房前がすぐに応じると、安宿媛の顔に笑みが広がった。
「さすがは、房前兄上。真っ先に相談しようと思っていたわたしの考えは間違いではなかったわ」
 安宿媛の顔から笑みが消えた。
「あら。そういえば、兄上もわたしに用があるのでしょう」
 房前は苦笑した。
「安宿媛様のお顔を見に来ただけです」
「嬉しいことをおっしゃるのですね」
「そういえば、ひとつだけ、お伺いしたいことがありました」
 房前は言った。
「なんでしょう」
「先日、長屋王様が氷高様と首様にお会いになられたと思うのですが、どんな話がなされたか、聞いてはおりませんか」
 安宿媛の頬が膨らんだ。
「わたしの顔を見たいだなんて、嘘ですね」
「そんなことはありません」
「兄上たちの興味は政ばかり。仕方ありませんね。みな、父上の血を引いているのですから」
「それは安宿媛様も同じ」
「そうですね。でも、わたしは政は嫌いです」
 安宿媛は顔をしかめた。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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