四神の旗第二十三回

「左道(さどう)......このわたしが」
 長屋王(ながやのおう)が目を剥いた。
「たわ言も大概にしてください。なぜわたしがそのようなことをしなければならないのです。国を傾けようなどと謀(はか)ったことはないし、皇太子が身罷(みまか)られたのは病(やまい)のせい。呪(まじな)いなど、断じてかけてはおりません」
 武智麻呂(むちまろ)は舎人親王(とねりしんのう)の袖を引いた。
「舎人様。ここは、わたしと長屋王だけにしていただけませんか」
「いいだろう。ここは居心地のいい場所ではないからな」
 舎人親王に促され、一同は部屋の外に出ていった。
「中納言(ちゅうなごん)、よくも左道だ、呪いだというたわ言を考えついたものだ」
 長屋王が言った。目は血走り、顔は汗で濡れている。
「そう言ったのは、道慈(どうじ)殿ですよ、長屋王様」
 武智麻呂は言った。
「道慈殿だと」
「道慈殿は心底あなたを嫌っているのです。どうしてそのような人間に、写経の奥書を検(あらた)めさせたりしたのですか」
「道慈殿が......」
「あなたは自分でも気づかぬうちに驕(おご)っていたのです。左道も呪いもどうでもいい。このような事態に陥ったのは、あなた自身が招いたことです」
「あの奥書に他意はない。わたしはただ、わが父母を崇め、この国が末永く安泰に続くことを願って――」
「なにをどう言い繕おうともう手遅れなのです、長屋王様。首(おびと)様はことのほかお怒りです。皇太子様が亡くなられたことに傷つき、だれかのせいにしたくてしようがなかった。そこに出てきたのがあなたの写経の奥書です。わたしはただ、首様にほのめかすだけでよかった」
「武智麻呂......」
「あなたを嫌っているのは道慈殿だけではありません。首様も、多くの家臣たちもあなたを忌み嫌っている。あなたが驕っていたからです。せめて、諸司百官を率いて立太子の儀に臨んでおられれば、このようなことにはならなかったでしょう」
「あれは、わたしが......」
「人は感情に左右される生き物です。あなたは原則を盾に、その感情を無視した」
 長屋王の肩が落ちた。
「不比等(ふひと)がよく言っておりました。政(まつりごと)とはなにかを手に入れるためになにかを差し出すことなのだと。あなたはなにも差し出さずにすべてを手に入れようとなされたのです」
「もうよい」
 長屋王はうなだれたまま言った。
「諦めがつきましたか」
「首様はわたしにどうせよと」
「自害するように、と」
「嫌だと言えば、この邸に火を放つか」
 武智麻呂はうなずいた。
「せめて、吉備内親王(きびないしんのう)の命だけは救ってもらえぬか」
「諦めてください。あなたは謀反人(むほんにん)なのです。妻と子供たちも同罪」
「長娥子(ながこ)とその子供たちは殺さぬくせに」
「申し訳ありません」
 武智麻呂は頭を下げた。
「わかった。自害しようではないか。だが、明日まで待ってもらいたい。せめて、妻と子供たちの最後の夜を過ごしたいのだ」
 武智麻呂は口を閉じたまま長屋王を見つめた。長屋王が顔を上げた。
「あなたの勝ちだ。わたしは負けた。これ以上、抗ったりはしない」
「いいでしょう。一日、さし上げます。自害するのは明日と、首様にはお伝えします」
「すまぬ」
 長屋王はまたうなだれた。武智麻呂は長屋王に背を向け、部屋を出た。
「どうなった」
 外で待っていた舎人親王が訊いてきた。
「明日、自害します」
「そうか。それはよかった」
 舎人親王はほっとした様子で武智麻呂の肩を叩いた。
「これで、太政官(だいじょうかん)はそなたのものだな。すぐにでも大納言(だいなごん)、いや、右大臣に任じられるのではないか」
「わたしなど、滅相もありません」
 武智麻呂は首を振り、声にならない声を自分に放った。
 驕ってはならん。長屋王の死はわたし自身への戒めだ。

十八

 長屋王が自害したという報せを聞いた後、房前(ふささき)は不比等の墓所に向かった。
 死後、太政大臣(だいじょうだいじん)を賜(たまわ)り、生前は朝堂随一の権勢を誇った男の墓は実に質素なものだった。もちろん、不比等の望みでそうなったのだ。
 生きている間もそうだったが、不比等は実のあるもの以外には目もくれなかった。
 邸にも無頓着だったし、ましてや死んだ後の墓などどうでもいいと思っていたのだろう。
「父上、房前がやってまいりました」
 房前は墓所の前で頭を垂れた。
「武智麻呂兄上の姦計(かんけい)により、長屋王は自害に追い込まれました。吉備内親王とその息子たちもです。止めたかったのですが、わたしの力が及びませんでした」
 房前はそこで言葉を切り、唇を噛んだ。不比等の墓所は房前の言葉を飲み込んでただ、目前にあるだけだ。
「わたしは臣下としての筋を通そうとしたのです。父上はどう思われますか。正しいのはわたしですか。それとも、武智麻呂兄上ですか」
 房前は虚しさを噛みしめた。答えが返ってくるはずはないのだ。それがわかっていてなお、訊ねずにはいられない。
 内臣(うちつおみ)として、天皇や安宿媛(あすかべひめ)の心の動きにもう少し気を配っていれば、このようなことは起こらなかったはずだ。
 そう思えば思うほど自分のことがゆるしがたく、皇太子を失ったふたりの悲しみを利用した武智麻呂に対する怒りが湧いてくる。そして、宇合(うまかい)と麻呂(まろ)に対する失望が虚しさに追い打ちをかけるのだ。
 ふたりの弟は武智麻呂よりは自分に近い考えを持っていると思っていた。実際、昔はそうだったはずだ。
 だが、時が経ち、権力に近づいていくうちに弟たちは変わってしまった。かつては心から慕っていた房前をのけ者にしてまで、力を得るために歩んではならない道を歩みはじめたのだ。
 足音が耳に届き、房前は振り返った。
 武智麻呂がこちらに向かってくる。
「房前――」
「兄上――」
 房前は武智麻呂に一礼した。
「おまえもここに来ていたか」
「はい」
「口惜しいのだろうな」
 武智麻呂は不比等の墓所に向かい、頭を垂れた。
「ええ、口惜しいです。わたしが内臣としての務めをきちんと果たしていれば、このようなことには――」
「遅かれ早かれ、長屋王はこのたびと同じような憂き目に遭ったはずだ」
 武智麻呂はきっぱりとした口調で言った。
「立太子の言祝(ことほぎ)がなかった時から、あの男の運命は決まっていたのだ」
「それはどうでしょうか。長屋王様は志を持って政を進めていました。いずれ、首様の長屋王様に対するわだかまりも消えたはず」
 武智麻呂が微笑んだ。
「なにがおかしいのです」
「おまえには人の心の動きというものがわかっておらん。長屋王と同じだ。首様の長屋王への怒りは時が経つごとに大きくなっていったはずだ。皇太子様の死はただのきっかけにすぎん」
 房前は武智麻呂の横顔を見た。
「満足ですか」
 武智麻呂が房前に顔を向けた。
「謀(はかりごと)をもって敵を葬り、権力を手中にした。それで兄上は満足ですか。しかし、その権力は正しいものではありません」
「権力に正しいも悪いもない。権力はただ権力だ。宇合は――」
 武智麻呂はまた不比等の墓所に目を向けた。
「唐を手本にした国造りをしたいと考えている。それを実現するためには力がいる。だから、わたしに手を貸したのだ。麻呂にも望みがあるのだろう。それを叶えるためにわたしについた。おまえは弟たちの心さえ読めない愚かな兄だ」
「宇合とそのような話をしたことがあるのですか」
 房前は言った。宇合が唐を手本にした国造りをしたがっているなど、考えたこともないし聞いたこともない。
「話をしたことはない。だが、普段のあいつの様子を見ていれば察しはつく。おまえはなにを見ていたのだ。ただ、自分が正しくある、それだけを考えていたのだろう」
 武智麻呂の言葉が胸に突き刺さった。その痛みを振り払おうと房前は声を張った。
「それでは、兄上はなにを望んでいるのです。権力を手にして、なにをしようというのです」
「父上が成し遂げられなかったことを成し遂げるのだ」
 武智麻呂は胸を張っていた。後ろめたい思いはどこにもないのだ。
「子々孫々、藤原の血を引く者が玉座に就く。そのための礎(いしずえ)を築く。父上はそのために長い間、心を砕き続けてきた。おまえも知っているだろう」
「藤原の者といえど、天皇の臣下にすぎません。臣下は臣下としての分をわきまえるべきです」
「藤原の者は臣下であって臣下ではない特別な一族になるのだ」
 武智麻呂が歌うように言った。
「藤原の血を引く者が天皇になり、藤原の娘が天皇に嫁ぐ。そうして生まれた皇子が次の天皇になり、また藤原の娘が新たな天皇に嫁ぐ。父上が望まれていたのはそういうことだ。皇室と藤原の家が結びつき、分かたれることがなくなる世を、父上は目指していたのだ」
「それはあまりに不遜(ふそん)な――」
「不遜ではなかろう。天皇もまた、藤原の一族ということになるのだからな。権力を手にしてなにをするのかと訊いたな。手始めに、安宿媛を皇后にする」
「臣下の娘が皇后になるなどあり得ません」
 房前は武智麻呂を睨んだ。
「おまえは黙って見ていればよい。内臣の任を解くことはしないが、政には関わらせぬ。朝堂から追い出さないのは、兄のせめてもの慈悲だと思え」
 武智麻呂は房前に背を向け、振り返ることなく立ち去っていった。

        * * *

 麻呂が箏(そう)を奏で終えると、安宿媛の顔に満足の笑みが浮かんだ。
「腕は落ちていませんね、兄上」
「ありがたいお言葉です、皇后様」
 麻呂は言った。安宿媛の立后は天皇の宣命(せんみょう)により実現した。
 臣下の娘が皇后になることに反対する者は多かったが、皇太子の母であるという一点を押して、天皇と武智麻呂がその者たちを黙らせたのだ。
 大納言となった武智麻呂は、巧妙に立ち回って舎人親王や新田部親王(にいたべしんのう)の力を削ぎはじめている。
 天皇、皇后が共に藤原の血を引き、太政官を主導するのが武智麻呂となれば、大勢は決まったも同然だった。長屋王が政を主導していた時代には滞っていた諸々の事柄が、大きく動き出そうとしていた。
「兄上たちが太政官に席を得るのはまだ先のことになりそうですね。首様にも、お話をしたのですが、もう少し時がいるとおっしゃるばかりで」
「いたしかたありません。太政官にはすでに武智麻呂兄上と房前兄上がいるのですから」
「房前兄上など、いないも同然ではありませんか」
「皇后様」
 麻呂がたしなめると、安宿媛は頬を膨らませた。半年が過ぎた今でも、房前に対する怒りは収まらないらしい。
 房前は議政官のままでいるが、太政官での発言が取り上げられることはなかった。内臣として、天皇や皇后に呼ばれることもなくなった。
 麻呂には房前が憐れに思えてならないのだが、宇合は自業自得だと冷たかった。武智麻呂にいたっては、房前など存在しないとでもいうように振る舞っている。
「もし、わたしが皇子を産めなかったとしても、ご安心ください、兄上」
「なにをおっしゃるのです、皇后様」
 麻呂は瞬きを繰り返した。
「お聞きください。そのときは、首様は阿倍(あべ)を皇太子にするでしょう」
 阿倍内親王は安宿媛が産んだ皇女だ。
「阿倍には、太上天皇(たいじょうてんのう)様と同じように独り身でいてもらいます。阿倍が玉座に就いているうちに、兄上たちで次の策を練るのです」
 安宿媛に皇子が生まれなければ、不比等や自分たちの努力が水泡に帰すことになる。そうなって欲しくはないが、最悪の事態を頭に入れておく必要がある。それが政だということが、最近、よくわかってきた。
「皇后であるわたしが、兄上たちを支えますから」
「ありがたいお言葉です。兄上たちにもそう伝えましょう」
「武智麻呂兄上は静かに、けれど確実に事を進めていますね。父上そっくりです。麻呂兄上も覚えていますでしょう。まだ若い頃は、みな、房前兄上の方が父上に似ていると噂していたものです」
 麻呂はうなずいた。参議に上がったのも、房前の方が先だった。引き上げたのは不比等だ。その事実をもってして、みな、不比等の後継者は房前なのだと納得したのだ。
 だが、今になってみれば違うということがわかる。不比等は、房前にこそ経験が必要だと感じていたのだ。参議として自分のそばに置き、政のなんたるかを教えようとした。武智麻呂にはその必要を感じなかったのだろう。
「だれよりも父上に似ているのは武智麻呂兄上です」
 安宿媛が言った。
「宇合兄上とわたしはどうなのでしょうかね」
「さあ、どうでしょう」
 安宿媛は童女のように笑った。
「父上に似るのか、似ないのか、それはこれからのありようで決まるのではないですか」
「わたしはわたしでありたいのです、皇后様。父上のようになりたいと思ったことはありません」
「宇合兄上も同じことを言いそう」
 安宿媛がまた笑った。皇太子を失ってからは強ばってばかりいた顔が、今はかつての輝きを取り戻している。
「安宿媛様がわたしたち兄弟を支え、わたしたち兄弟は安宿媛様をお守りする。わたしたちは安宿媛様の四神にございます」
「ひとり足りないわ」
 安宿媛が言った。
「房前兄上とて、安宿媛様をお守りするという気持ちはいささかも揺らいでいないと思いますよ」
「そうですね。やり方が間違っているとしても、わたしを守ろうとはしてくださいましたものね」
 安宿媛は口を閉じ、それきり、一言も発しなくなった。

        * * *

「おめでとうございます、宇合様」
 曹司(ぞうし)に戻ると、小野牛養(おののうしかい)と中臣広見(なかとみのひろみ)、高橋安麻呂(たかはしのやすまろ)の三人が宇合を待っていた。
 つい先ほど、参議に任ずるという勅命を受けたばかりだった。武智麻呂の話では、麻呂も参議に引き上げられるそうだ。太政官の席に、不比等の息子四人が座ることになる。前代未聞だが、もはや、武智麻呂に逆らえる者はどこにもいなかった。
「長い時がかかりましたが、ついに太政官に名を連ねたのですね」
 小野牛養が言った。今では皇后宮大夫(こうごうぐうだいぶ)だ。
「まったく、いつまで待たせるつもりかと、大納言に詰め寄りたくてたまらなかったのですよ」
 中臣広見は実に嬉しそうだった。今は小野牛養の後を襲って右中弁(うちゅうべん)の職にある。
「これで、宇合様の目指す政を実行に移せますな」
 高橋安麻呂は次の右中弁の座を約束されている。大野東人(おおののあずまひと)も要職に就き、陸奥(みちのく)で任務に励んでいる。武智麻呂は、宇合の戦友たちの功績を認めたのだ。
「大納言なら、すぐにでも宇合様を参議に引き上げられたものを、なにをぐずぐずしていたのやら」
 中臣広見が首を振った。
「同じく大納言の大伴旅人(おおとものたびと)が亡くなるのを待っていたのだよ」
 宇合は答えた。実権は武智麻呂が握っていたが、太政官の名目上の主席は年長者でもある大伴旅人だった。武智麻呂は旅人の面子を潰さぬよう、時を待っていた。
 不比等のやり方を踏襲したのだ。
「これで、藤原不比等の四兄弟がすべて、議政官になるのです。藤原の世のはじまりですな」
 小野牛養が言った。
「まだだ。まだ、はじまったばかりだ。それに――」
 宇合は途中で言葉を切った。
 三人が申し合わせたように首を傾げた。
「なんですか。途中で話すのをやめるのは、宇合様の悪い癖ですよ」
 宇合は高橋安麻呂の言葉を聞き流し、ただ、微笑んだ。
 望んでいるのは藤原の世ではない。藤原宇合の世だ。武智麻呂が目指すものと自分が目指すものは違う。麻呂もそうだろう。
 胸の内で思い描く理想を実現するためには、なにがなんでも藤原宇合の世を手に入れなければならない。そのためには、武智麻呂や麻呂と争うことになるはずだ。
 太政官に席を得たこれからが、本当の戦いのはじまりだった。
「笑っているばかりでは、わたしたちにはなにもわかりません」
 中臣広見が口を尖らせた。
「わたしにはまだおまえたちの力が必要だ。これからもよろしく頼む。そう言おうとしたのだが、言うまでもないと思って口を閉じたのだ」
「なるほど。それなら確かに口にする必要はありません。我らはどこまでも宇合様についていきますから」
 小野牛養は何度もうなずいた。
 武智麻呂を敵に回すことになったとしても、この男たちは宇合に背を向けたりはしないだろう。
「宇合様の議政官就任を祝って、我らでささやかな宴を設けようと話していたのですが、いかがですか」
 中臣広見が言った。宇合はうなずいた。
「いいな。久しぶりにみんなで大いに飲もう」
 宇合は三人の肩を順に叩いた。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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