四神の旗第二十二回

 * * *

「首様、房前です。なにとぞ、お目通りを」
 部屋の外で房前が喚(わめ)いている。その声に天皇が眉をひそめた。
「しつこい男だな」
「それだけが取り柄なのです」
 武智麻呂は頭を下げた。
「弟の不躾(ぶしつけ)な振る舞い、おゆるしください」
「長屋王をかばい立てしているのだぞ。共に謀反を企んでいたのではないか」
「房前がそのような男でないことは、首様もご存じのはず」
 天皇が笑った。
「さすがのそなたも弟のことはかばうのだな」
「進む道は違いますが、同じ血を引く兄弟ですから」
「しかし、どうするのだ。わたしがゆるしたところで、名ばかりの内臣になるだけではないか」
「それでも、死ぬよりはましかと思います」
「わかった。あの者のことはそなたに任せよう」
「ありがたきお言葉」
 武智麻呂は深く頭を下げた。
 まだ房前の声が響いている。こちらの気持ちをわかろうともせず、ただ、自分のやりたいことを押し通そうとしているのだ。
「長屋王の方はどうなるのだ」
 天皇が物憂げに訊いてきた。
「この後、わたしが議政官数名を伴って邸を訪れ、糾問いたします。その上で、自害を命じることになるでしょう」
「吉備内親王も同じだな」
 武智麻呂はうなずいた。
「後で、氷高様がたいそうお怒りになるだろうな」
「ええ。しかし、怒りはいずれ収まります。謀反を企んだ大罪人を罰するのが先決です」
「念のため、糾問には舎人親王か新田部親王を連れて行くのだ。それで、文句を言う者たちも口をつぐむしかなくなるだろう」
「そのつもりです」
「息子たちにも容赦は無用だ」
「心得ました」
 天皇が溜息を漏らした。
「わたしは非道な天皇だという誹(そし)りを受けるのだろうな」
「そのようなことはありません。長屋王は左道を用いて国を傾けようとしたのです。首様はそれを断罪されただけ。なにも気になさらず、これまでどおり、国を正しい方向に導いていけばよいのです。いずれにせよ、時が経てば、みな、今回のことを忘れてしまうでしょう。人というのはそういうものです」
「そなたはなにもかもを心得ているのだな」
 武智麻呂は微笑んだ。
「不比等の息子ですから」
「人はいつか忘れる。そして、同じことが繰り返されるのだな。早く皇太子を立てよという者もまたぞろ現れる」
「そうなるでしょう」
「中納言、わたしは安宿媛の産む皇子(みこ)以外、皇太子にするつもりはないぞ」
「ありがたきお言葉です」
 武智麻呂は深く頭を下げた。
「藤原のためではない。わたしは安宿媛を深く慈しんでいるのだ。あの者の喜ぶ顔が見たくてたまらぬ」
「安宿媛様にも、首様のお気持ちは十分に伝わっているはずです」
「だからこそ、なおさら長屋王が憎くてたまらぬ」
「長屋王は罰を受けます」
「頼んだぞ、中納言。長屋王を討った後、太政官を率いるのはそなただ」
「ひとつだけ、お頼みしたいことがあります」
 武智麻呂は言った。
「なんだ」
「すぐにというわけではありませんが、いずれ、宇合と麻呂を議政官に引き上げようと考えております」
「他の者たちが反対するであろうな。すでにそなたがいるのだ。同じ一族の中から三人の者が議政官に席を占めるなど、前代未聞だ」
「ですから、首様のお力添えが必要なのです」
「わかった。そなたは謀反を収めた功労者になるのだ。多少の無理は、わたしが通してみせよう」
「ありがとうございます」
 武智麻呂は一礼し、腰を上げた。
「では、行ってまいります」
「よろしく頼む」
 天皇はそう言うと、武智麻呂から顔を逸らした。
 房前の声が聞こえなくなっていた。

        * * *

 邸の中から女や子供たちがすすり泣く声が聞こえてくる。
 宇合は溜息を漏らした。耳にして気分がいいものではない。
「よく泣き続けますな」
 佐味虫麻呂がうんざりした顔で言った。
「もうすぐ死ぬとわかっているのだ。泣きもするだろう」
 長屋王は死ななければならない。だが、吉備内親王や子供たちに非はない。ただ禍根を断つために殺されるのだ。
「政というのは厄介なものだ」
 宇合は呟いた。
「なんとおっしゃいましたか」
「なんでもない。戯れ言だ」
 宇合は腰に佩いていた太刀を外した。夜が明けてかなりの時が経っていた。もう少し待てば、武智麻呂がやって来る。
「兄上」
 兵たちの間を縫うようにして麻呂が姿を現した。宇合同様、甲冑を身につけ、腰に太刀を佩いている。
「どうしたのだ。おまえの持ち場は安宿媛の邸ではないか」
「房前兄上が退散したので、あちらにはわたしの用はもうないと思いまして」
「やはり、房前兄上が来たか」
「この事態をなんとか収めようと必死です。もう行き着くところまで行くしかないのだということがあの人にはわからないのです」
「あの人、か......」
 宇合は苦笑した。
 麻呂は変わった。おそらく自分も変わってしまったのだろう。武智麻呂もだ。
 変わらないのは房前だけだった。
「もう、兄とは思いません」
 麻呂は言葉を続けた。
「おまえの気持ちはよくわかる。だがな、わたしは房前兄上を嫌うことはできん」
「どこまでも自分勝手な人ですよ」
「我々も自分勝手という意味では同じだ。それより、武智麻呂兄上はいつこちらに来るのだ」
「先ほどまで、首様に謁見していたようです。もう間もなくではないですか」
「待ちくたびれた。一晩、邸から聞こえてくるすすり泣きに付き合わされたのだぞ」
 麻呂は邸に目を向けた。
「哀れですね」
「わたしたち兄弟が、罪のない者たちを哀れな境遇に押しやったのだ」
「仕方ありません。我々にはこうするしかなかったのですから」
 麻呂は唇をきつく結んだ。
 麻呂は確かに変わった。強くなったのだ。ただ、それがいいことなのかどうかはわからなかった。
「長屋王がいなくなれば、太政官の長には武智麻呂兄上が就くことになるのでしょうね」
「そうだろう」
「いきなり大臣というわけにはいかないから、大納言というところでしょうか」
 返事をするのが煩(わずら)わしく、宇合はただうなずいた。
「兄上はどうなさるおつもりですか。いずれ、太政官に席を得ることになります」
「おまえもそうなるだろう」
 麻呂が首を振った。
「さすがに、兄弟三人が議政官になるというのでは反対する声も多くなるでしょう。わたしが議政官になるのはずっと先のことですよ」
「そうかもしれんし、そうではないかもしれん」
「お答えください。この後、兄上はどうなさるおつもりですか」
 宇合は腕を組んだ。自分がなにをどうしたいのか、ぼんやりとした考えはあったが、はっきりとした形を頭に思い描いたことはなかった。
「政に携わる者は、頂点を目指さねばならん」
 宇合は答えた。
「頂点には武智麻呂兄上がおりますよ。武智麻呂兄上と争うのですか」
「仕方ないだろう。それが政というものだ。わたしと兄上では目指すところが違うのだからな。おまえも同じだ。いずれ、武智麻呂兄上やわたしに牙を剥(む)く」
「そうなりますか」
「なる」
 宇合は麻呂の肩を叩いた。
「権力を掌握できるのはひとりだけだ。分け合うことはできない。子供たちのことを考えても、頂点を目指すほかはない。長兄の武智麻呂兄上だからと遠慮していては、わたしの子供たちも武智麻呂兄上の子供たちの後塵(こうじん)を拝することになる」
「武智麻呂兄上は手強いですよ」
「わたしも手強いはずだ。父上の血が流れているのだからな」
 背後の兵たちがざわつきはじめた。
「来たようですね」
 麻呂が振り返った。宇合もそれに倣(なら)った。
 舎人親王と新田部親王を先頭に、多治比池守(たじひのいけもり)と武智麻呂がこちらに向かってくる。
 宇合は四人に向かって一礼した。
「遺漏(いろう)はないか」
 武智麻呂が口を開いた。
「ありません。昨夜、邸を取り囲んでからは、虫一匹、邸の外に出てはおりません」
「ご苦労。左右京大夫(さうきょうのだいぶ)」
 武智麻呂は麻呂に顔を向けた。
「なんでしょう、中納言様」
「そなたに天皇からの命を下す。兵を率い、長屋王に与する上毛野宿奈麻呂(かみつけのすくなまろ)らを捕縛してくるのだ」
 武智麻呂は懐から紙を取り出した。捕縛すべき臣下たちの名が記されているのだろう。武智麻呂に抜かりはない。
「承知いたしました」
 麻呂は紙を受け取り、四人に一礼すると去っていった。
「舎人親王様、新田部親王様、ご苦労様です」
 宇合はふたりの親王に頭を下げた。
「酷いことだな」
 舎人親王は邸から聞こえてくるすすり泣きに顔をしかめた。
「吉備内親王と息子たちは助けてやることはできんのか」
 新田部親王は武智麻呂に訊いた。
「できません。首様の下された命ははっきりしています」
「酷いことだな」
 舎人親王は同じ言葉を繰り返した。
「これは謀反なのです。大罪です。いたしかたありません」
 武智麻呂の声には断固とした響きがあった。
「そろそろ行こうか。ここであのすすり泣きに耳を傾けているのは辛い」
 新田部親王は力なく首を振った。
「では、まいりましょう。式部卿、この後も気を抜くな」
「心得ております」
「ちゃんと太刀を佩いておけ。たるんでいるぞ」
 武智麻呂は宇合が手にした太刀を一瞥した。宇合は苦笑が漏れそうになるのをこらえた。
 武智麻呂は不比等がそうだったように、すべてのことに目を配っている。
「見習わなければな」
 宇合は邸へ向かっていく四人の背中を見送りながら独りごちた。

        * * *

 長屋王と吉備内親王のいる部屋まで案内する家人は、声も足も震わせていた。その震えはいつまで経ってもおさまる気配がなかった。
「もっとしっかり歩くことができんのか」
 何度も足をもつれさせる家人に業を煮やした舎人親王が叱責する。家人はそのたびに、震える声で許しを乞うた。
「長屋王、舎人親王と新田部親王、多治比池守、藤原武智麻呂が天皇の命により、そなたを糾問しにまいった」
 部屋の前で舎人親王が声を上げた。
「お入りください」
 部屋から聞こえてくる長屋王の声はいつものそれと変わらない。
 家人が戸を開けた。部屋の真ん中に、長屋王と吉備内親王が座っている。吉備内親王の顔はやつれていた。
「舎人親王、これはいったいどういうことですか。長屋王が謀反など――」
「吉備様は口をつぐんでいた方がよい」
 新田部親王が言った。家人に吉備内親王を部屋の外に連れ出すよう命じる。
「わたしは長屋王と共におります」
 吉備内親王が抗った。
「いいのです、吉備様。わたしを案じる必要はありません。どうか、新田部様のおっしゃるよう、席を外してください」
 吉備内親王は唇をわななかせた。両目から大粒の涙がこぼれ落ちる。家人が泣き続ける吉備内親王を抱えるようにして部屋の外へ連れ出した。
「まさか、舎人様と新田部様までもが中納言に与なさるとは」
 吉備内親王の泣き声が遠ざかると、長屋王が口を開いた。
「中納言に与しているわけではない。首様の命に従っているだけだ」
 舎人親王が言った。
「そのようなたわ言をだれが信じますか。お二方が手を貸したからこそ、中納言はわたしを陥れることができたのです」
 武智麻呂は口を閉じたまま、長屋王を見据えた。
 平常心を装ってはいるが、こめかみがときおりひくついている。怒りと恐怖に心が引き裂かれそうになっているのだろう。
「昨日、左大臣、長屋王が左道により皇太子様を呪い殺し、国を傾けようとしているという告発があった。太政官にてこれを吟味したところ、告発は真実に違いないという結論に達し、天皇に上奏したところ、謀反人、長屋王を断罪せよとの命が下された」
 新田部親王が懐から取り出した紙を読み上げた。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー