四神の旗第二十回

        * * *

 天皇に謁見しようと廊下を歩いていると、房前を呼ぶ声がした。
「兄上、房前兄上」
 振り返ると、麻呂がこちらに笑顔を向けていた。
「どうしたのだ、麻呂」
「兄上を見かけた途端、先日おっしゃっていたことを思い出しまして。これから、安宿媛のところに出向きませんか」
「わたしは首様に謁見しに行くところなのだ」
 今日は仕事が立て込んでいて、天皇への挨拶が遅れてしまっていた。
「わたしも先ほど謁見して参りました。首様は今日は調子がよろしくないらしく、しばし床に就くとおっしゃっておりました」
「そうなのか」
「ええ。ですから、安宿媛の元へ。どうです」
「そうするか」
 房前はうなずいた。天皇に会い、挨拶をするのは内臣の日課のようなものだ。取り立てて話をしなければならないような事案はなく、天皇は房前が目の前にいてもむっつりと黙り込んでいることが多い。
 房前が挨拶に出向かなければ天皇はほっとするのではないか――そんな気もしているところだった。
「安宿媛は健やかにお過ごしでしょうか」
 肩を並べると、麻呂が言った。
「毎日、熱心に写経に取り組んでおられる」
「安宿媛は強いお方ですから。なにしろ、父上と三千代(みちよ)殿の血を引いているのです。もしかすると、わたしたち男兄弟よりも芯は強いのかもしれません」
「そうかもしれんな。ところで、おまえはなんの用があって首様に謁見したのだ」
「わたしとて左右京大夫ですよ。時には、首様に用事を申しつけられることもあります」
 麻呂が唇を尖らせた。
「訊いてみただけだ。そう怒るな」
「怒ってなどおりません。それにしても、今日は冷えますね」
 麻呂の吐く息が白い。確かに今日の冷え込みは厳しかった。
「少し急ぎましょう。速く歩いた方が、体が温まります」
 麻呂が先を急いだ。房前は慌てて後を追った。
 背後になにか気配を感じて振り返る。武智麻呂の部下が廊下を急いで歩いていた。
「太政官の方でなにかあったのだろうか」
 房前は首を傾げた。
「太政官の方々は、なにごとも大袈裟(おおげさ)にしがちですからね」
 麻呂がのんびりとした口調で応じた。
「気になるな」
「兄上は内臣なのです。もし、一大事が起こったのだとしても、すぐにだれかが呼びに来るでしょう」
「それもそうだな」
 房前は麻呂に促されるようにして再び歩き出した。

        * * *

 麻呂は房前に気づかれぬよう、胸を撫で下ろした。房前を天皇や議政官たちに近づけてはならん――武智麻呂にそう言われている。
 事が動きはじめたのだ。房前がなにかを嗅ぎつければ、これまでのすべてが無駄になる。
 房前を騙していると思うと胸が痛む。だが、その痛みは耐えがたいほどではなかった。
 安宿媛がふたりを待っていた。
「もしかしたら、今日辺り、おふたりが見えるのではないかと思っていたのですよ」
 安宿媛は唇と頬に紅を刷(は)いていた。皇太子を失ってから、化粧を施すのは初めてのことだ。
「今日はいつにもましてお美しい」
 麻呂は言った。房前と共に、安宿媛の向かいに腰を下ろした。
「嬉しいお言葉です、麻呂兄上」
「心に浮かんだ言葉を口にしたまでです」
「房前兄上も、いつもわたしを気遣ってくれて、本当にありがとうございます」
「兄として、内臣として当然のことです」
「なんだか今日は心が晴れやかなのです。おふたりのために酒膳を用意させましょう」
 安宿媛は家人を呼ぶと、酒膳の用意を命じた。
 麻呂はその姿を感心しながら眺めた。
 安宿媛は長屋王討伐の経緯を天皇から聞かされているはずだ。そして、今ここに房前がいる意味も承知している。
 髪を整え、化粧を施し、天皇の夫人であることを房前に意識させている。
 普通の女人なら、事の大きさに震えおののいても不思議ではない。だが、安宿媛は恐れを微塵も感じさせずに振る舞っていた。
 安宿媛と房前が談笑をはじめた。麻呂もそれに加わろうとしたが、口がうまく動かない。
 武智麻呂たちの動きがどうなっているのか、気になって仕方がなかった。
 安宿媛を見習え――自分を叱咤し、無理矢理微笑みを浮かべた。
「ところで、房前兄上、折り入ってお頼みしたいことがあるのです」
「なんでしょう」
「兄上の娘を、いずれ、入内(じゅだい)させていただけないかと」
 房前が背筋を伸ばした。
「なにをおっしゃるのです」
「この先、わたしが首様の皇子(みこ)を授かるかどうかはわかりません。ならば、武智麻呂兄上の娘と房前兄上の娘を入内させて、将来に備えるべきかと。兄上の正室の牟漏女王(むろのおおきみ)はわたしと同じ、橘(たちばなの)三千代の血を引く女人。その女人と兄上の間にできた娘ならば、首様のそばに仕えたとしても、異論を唱える者はおりません」
「安宿媛様は皇子を授かります。余計な心配はせずとも――」
「父上が今の言葉を聞いたらお怒りになるとは思いませんか」
 安宿媛は強い目で房前を見据えた。房前がたじろいだ。
「政に携わる者は、常に万一のことを考えておかねばならぬ。父上ならそうおっしゃるはずです」
「確かにそうでしょうが、しかし......」
「藤原の家のためです。今すぐにとは言いませんが、心に留め置いていただければ」
 房前がうなずいた。その頭の中からは武智麻呂の部下のことは消え失せているだろう。
 安宿媛の目論見が見事に当たったのだ。
「しかし、安宿媛様、自らが皇子を授かることを諦めてはなりません」
「わかっております。父上と母上の願い、それは、わたしが産む首様の御子が玉座に就くこと。わたしもそれを強く願っているのです」
 安宿媛の言葉に房前が力強くうなずいた。
「失礼。用を足して参ります」
 麻呂は腰を上げた。目が合うと、安宿媛がうなずいた。房前は何も気づいていないようだ。
 部屋を出ると、庭に麻呂の部下が控えていた。
「あちらの様子はどうなっている」
 麻呂は庭に出て、小声で問いただした。
「先ほど、式部卿様が中納言の曹司に入っていかれました」
「わかった。引き続き頼むぞ」
 部下が立ち去った。
 武智麻呂は計画どおりに事を運んでいるようだ。事前に舎人親王と新田部親王に話を通してある。他の議政官たちには反対の声を上げる暇もないだろう。
 武智麻呂に正面切って対峙できるのは房前だけなのだ。だが、その房前はここで足止めされている。
「もうすぐですね」
 麻呂は独りごちた。
 長屋王の世が終わり、再び、藤原の世がやって来る。武智麻呂や宇合と覇を競うのはその後でいい。
 安宿媛の笑い声が庭に流れてきた。麻呂は安宿媛の肝の太さに感嘆の息を漏らした。

        * * *

 すでに太陽は傾き、宵闇(よいやみ)が辺りを支配しようとしはじめていた。
 宇合の前には兵士たちが並んでいる。篝火(かがりび)がその横顔を赤く染め上げていた。
「天皇より、左大臣、長屋王を討てとの命が下った。我らはこれより長屋王の邸を取り囲む。邸からはだれも外に出してはならんと心得よ」
 一部の兵士は動揺し、残りの兵士は期待に顔を輝かせている。長屋王の政では閉ざされていた出世の道が開かれるのだ。
「刃向かう者は討て。しかし、余計な殺生は禁じる。よいな」
 兵士たちが声を上げた。
「では、参る」
 宇合が合図を出すと、兵士たちは進軍をはじめた。先頭に立つのは陸奥(みちのく)で共に戦った男たちだ。
「我々も参りましょう」
 傍らの佐味虫麻呂(さみのむしまろ)が宇合を促した。佐味虫麻呂は衛門佐(えもんのすけ)だった。密かに兵士を動員するため、長屋王に通じている者の多い督(かみ)の位の者たちをさしおき、佐の者たちに話をつけておいた。
「そうしよう」
「いよいよですね。長屋王を打ち倒し、新たな世を開くのです」
 佐味虫麻呂も昂揚した面持ちだった。
 宇合は馬にまたがった。軍勢の先頭に立ち、長屋王の邸に向かった。今宵、長屋王は佐保ではなく、左京の邸にいる。宇合自らが確認した。
 できうることなら佐保にいて欲しかった。左京の邸には妻の吉備内親王(きびないしんのう)と息子たちがいる。長屋王と一緒でなければ見逃すこともできるが、左京の邸で一緒となるとそうも言ってはいられない。武智麻呂は後の災いの種となるものを残しておこうとはしないだろう。
 せめてもの救いは長屋王に嫁いだ長蛾子(ながこ)は無事に済むということだった。
「腕が鳴ります」
 宇合の馬を引く佐味虫麻呂が振り返った。
「斬り合いにはならん」
 宇合は囁くように答えた。長屋王は私兵を抱えてはいない。軍勢に邸を取り囲まれてはなすすべもないだろう。

        * * *

「長々と話し込んでしまいましたね。麻呂、そろそろおいとましよう」
「まだよいではないですか。こうして安宿媛と話に花を咲かせるのも久しぶりのことなのです」
 麻呂が同意を求めるように安宿媛に視線を送った。
 安宿媛の用意した酒膳だが、麻呂はほとんど口をつけていない。酒と詩と箏をあれほど好んでいた男だが、自分で口にしたとおり、大人になったのかもしれない。
「そうですよ、兄上。夜、ひとりでいるとどうしても皇太子に思いを馳せ、心が苦しくなるのです。今宵はもう少し、この妹に付き合ってくださいませ」
「しかし......」
 房前は慌ただしい気配に口を閉じた。だれかが駆けてくる足音がする。
「内臣様、内臣様、一大事でございます」
 配下の声だった。
「失礼な。ここは安宿媛様の居室にございますよ」
 外で侍っていた女官が声を荒らげた。
「一大事なのでございます、内臣様」
「なにごとだ」
 房前は腰を上げ、戸を開けた。薄闇の中、息を切らした配下が地面に膝をついていた。冷気が一層強まっているというのに、配下の顔は汗で濡れている。
「内臣様、式部卿様が六衛府の兵士たちを招集しております。今にも出陣しそうな様子なのです」
「なんだと。式部卿が六衛府の兵士たちを......どういうことだ」
「なんでも、長屋王様を討伐するとか」
 背筋を悪寒が駆け抜けた。房前は麻呂に顔を向けた。
「麻呂、どういうことだ」
 麻呂が酒に口をつけなかったわけがわかった。最初から知っていたのだ。
「わたしはなにも知りません」
 麻呂が言った。
「麻呂――」
 房前は麻呂に詰め寄った。武智麻呂に命じられたに違いない。房前をこの場に引き留め、その間に長屋王を排除するための策を実行に移そうとしている。
「首様が長屋王を討てという命を下されたのです」
 安宿媛が房前の前に立ちはだかった。
「安宿媛様――」
「長屋王は呪いをかけて皇太子を殺したのです。討たれて当然です。ですが、兄上は首様の決定に反対されるでしょう。主である首様や妹であるわたしの苦しみより、自分の信念の方が大切なのですから」
 房前は後ずさった。安宿媛の目は炎を宿していた。その炎で房前を焼き殺そうとしているかのようだった。
「だから、房前兄上がなにもできないよう、ここに引き留めたのです。もう手遅れです。歯車は回りはじめたのですから。長屋王は死をもって自分の犯した罪を償うことになるでしょう」
「いつからですか」
 房前は叫ぶように言った。
「いつからわたしをのけ者にして、他の兄弟だけで事を謀るようになったのですか」
「それぐらい、考えればすぐにわかるでしょう」
 麻呂が口を開いた。
「武智麻呂兄上は何度も房前兄上に考えを翻すよう話をしました。時に、頭まで下げて。ですが、房前兄上は耳を傾けなかった。差し伸べられた手を取らなかったのは兄上です」
「なにを言っているのだ、麻呂」
「わたしや宇合兄上がどれだけ心を痛めたか、知っていますか。少しでも我々のことを心に留めていたなら、すぐに気づいたはずです。ですが、兄上は気づかなかった。兄上の住む世界に、わたしたちの居場所はないからです。その逆も同じ。わたしたちの住む世界に、兄上の居場所はないのです」
「麻呂......」
「勝手に好きな道を歩んでいたくせに、自分がのけ者にされたなどと言うのはやめてください。兄上にのけ者にされてきたのはわたしたちなのです」
 麻呂の顔は酒を飲んだかのように紅潮していた。目も潤んでいる。
「麻呂、安宿媛。このことは後でゆっくり話そう。時間がないのだ。武智麻呂兄上と宇合を止めねば」
「まだそのようなことを」
 安宿媛が唇を噛んだ。房前はふたりに背を向けた。今、ここを離れれば、ふたりとの絆は永遠に断ち切られる。
 それがわかっていてなお、動かずにはいられなかった。
 武智麻呂は間違っている。宇合も間違っている。麻呂も、安宿媛も間違っている。
 我らは不比等(ふひと)の子である前に、天皇の臣下なのだ。天皇に忠誠を尽くし、国のために身を捧げるのがその使命なのだ。
「兄上」
 麻呂の声が背中を追いかけてきた。房前はその声を振り払って駆けた。

        * * *

「式部卿が率いる軍勢が、長屋王の邸を取り囲んだそうです」
 伝令がやって来て告げた。武智麻呂はうなずいた。長屋王を逃がすことなく邸を取り囲んだのなら、もう事は成ったも同じだ。
「それで、どうするのだ、中納言」
 舎人親王が武智麻呂の顔を覗きこんできた。
「先ほども申しましたとおり、明日、長屋王を糾問いたします」
「邸を取り囲んだまま糾問し、そのまま断罪するのだな」
 新田部親王が言った。武智麻呂はうなずいた。
「公の場で長屋王を糾問することになれば、わたしたちの策が露見します。あくまでも、長屋王の邸の中ですべてを進めなければ」
「しかし、異を唱える者も出てこよう」
 舎人親王が首をひねった。
「わたしたちには首様がついているのです。すべては首様の命に従うまで。それでも異を唱えるものがいるとしたら、それは謀反人に相違ありません」
「首様の怒りは相当にお強いようだ」
 新田部親王が首を振った。
「いたしかたあるまい」
 舎人親王が溜息を漏らした。
「兄上、兄上」
 乱暴に廊下を歩いてくる足音と共に房前の声が響いた。
「これは、内臣の声だな。兄弟同士での話だ。我らは聞き役に徹することにしよう」
 舎人親王の言葉に、新田部親王がうなずいた。
「大声を出して、なにごとだ」
 武智麻呂は姿を見せた房前を叱責した。
「舎人親王様と新田部親王様がお出でなのだぞ」
「かまわん。内臣よ、我らのことは気にすることはない」
 舎人親王が言った。
「ありがとうございます」
 房前はふたりの親王に一礼した。
「兄上、これはどういうことです」
「長屋王を討てという首様の命が下った。わたしたちはそれに従ってやるべきことをやっている」
「なぜ、長屋王を討たねばならないのです」
「告発があったのだ。長屋王は左道を学び、国家を傾けようと謀った。その他にも、皇太子様に呪いをかけたそうだ」
「だれがそのようなたわけたことを。議政官のみなが、そんなでたらめを信じたとでも言うのですか」
「でたらめではない」
「兄上――」
 武智麻呂はなおも詰め寄ってこようとする房前を手で制した。
「長屋王を告発したという者たちを連れてきてください。わたしがその者たちを糾問します」
「首様はその者たちの言葉を信じた。それがすべてなのだ、房前」
「兄上――」
「明日、わたしを含めた議政官と親王様がたで邸に赴き、長屋王を糾問する。長屋王が罪を犯したのか、そうではないのか、その時に明らかになるだろう」
「邸で糾問ですと。そのような馬鹿げたことをだれがゆるすというのです」
「首様がそうおっしゃったのだ。そなたは首様の行いをも否定するのか」
「兄上――」
「もう決まったのだ、房前」
「しかし、兄上――」
「おまえは何者だ、房前」
 武智麻呂は房前を怒鳴りつけた。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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