四神の旗第十九回

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 頭に思い浮かぶ者たちの名を書き記していると、家人が房前(ふささき)が来ていると告げた。麻呂(まろ)は房前を通すように命じた。房前が姿を現す前に、紙と筆を片付けさせる。
 房前は麻呂の箏(そう)を携えていた。
「それは......」
「安宿媛(あすかべひめ)様のところに忘れてきただろう。安宿媛様に頼まれて持ってきた」
「ありがとうございます」
 麻呂は箏を受け取った。房前が床に腰を下ろした。
「しかし、その箏を忘れて数日が経つというではないか。おまえが箏をつま弾かずに何日も過ごしているというのが不思議だ」
「近頃は、左右京大夫(さうきょうのだいぶ)の責務を真面目にこなしているのです」
 麻呂は言った。実のところは武智麻呂(むちまろ)から命じられた仕事に忙殺されて箏どころではなかったのだ。
「責務だと。おまえの口からそんな言葉を聞くとは思わなかった」
「わたしも大人になったのですよ、兄上」
「ならばよいのだが......武智麻呂兄上とは会っているか」
 房前が話題を変えた。それを訊きたくてわざわざ訪ねて来たのだろう。
「いいえ。ここしばらくは顔も見ておりません」
「宇合(うまかい)もか」
「ええ。どうしたのです」
「話をしたいことがあって曹司(ぞうし)を訪れても姿が見えぬのだ。どうもすれ違いになってしまうらしい」
「武智麻呂兄上はお忙しい方ですから」
「宇合も同じなのだ。中納言(ちゅうなごん)と式部卿(しきぶきょう)が共に曹司にいない。なにかおかしいとは思わぬか」
 房前の目が刃のように細くなった。
「さあ。わたしなどは、ただお忙しいのだろうと思うだけですが」
「なにか、わたしに隠してはいないか」
 房前は言いにくそうに訊いてきた。房前はいい男だ。いい兄だ。
 だが、藤原の者にとって大切なのは情ではない。
「わたしがなにを隠すとおっしゃるでのすか」
 麻呂は言った。嘘をつくのが日に日に上手くなると自分でも思う。他の臣下たちにいくら嘘をつこうがどうということはないが、房前につく嘘は胸を抉(えぐ)った。
「よい。聞かなかったことにしてくれ」
「なにか心配事でもおありなのですか」
「なにやら胸騒ぎがするのだ」
 房前の目がいつものそれに戻った。
「胸騒ぎですか」
「うむ。なにか、よからぬ事が起こるのではないかと思ってな」
 麻呂は内心で舌を巻いた。房前もやはり、藤原の血を引く男なのだ。政(まつりごと)の情勢をすばやく見抜く目を持っている。
「皇太子様が亡くなられたばかりなのです。だれもが政の動きに神経を尖らせています。そのせいではありませんか」
「だといいのだが......そうだ。今度、一緒に安宿媛様のところへ行かないか。やっと深い悲しみからは抜け出したようだが、心に傷を負っていることに違いはない。慰めてさしあげたいのだ。できれば、兄弟四人で訪れたいが」
「それはいい考えです。武智麻呂兄上や宇合兄上と会う機会があったら、そのことを話しておきますよ」
「頼んだぞ、麻呂。どうも、武智麻呂兄上はわたしを避けておられるのかもしれない」
「考えすぎですよ、兄上」
 房前が首を振った。
「わたしと武智麻呂兄上は進む道が違うのだ。それはおまえも感じていよう」
「兄弟だからといって、同じ道を歩む必要はありません」
「できればおまえや宇合にはわたしと同じ道を歩んでもらいたいのだがな」
 麻呂は微笑んだ。
「わたしはわたしの道を、宇合兄上は宇合兄上の道を歩むと思います」
「そうだな。それが人のあるべき姿だ」
 房前は溜息を漏らした。麻呂は房前に気づかれぬよう、眉をひそめた。
 房前兄上も我らと同じ道を行けばいいのです――言葉にはせず、思いだけを房前にぶつけたが、房前はなにも気づかないようだった。

十六

「中納言様、中納言様にお目通りしたいと申す者たちが参っております」
 曹司で仕事をしていると、史生がそう告げに来た。
 武智麻呂は唇を舐めた。長屋王(ながやのおう)はすでに曹司から退出し、邸へ戻ったと宇合が伝えてきた。それで、事を進めると決めたのだ。事前に打てる手はすべて打っておいた。
「わたしに? 何者だ?」
 武智麻呂は素知らぬ顔で訊いた。
「漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまひと)と申しております。是非、中納言様に話したい儀があるとか」
「通せ」
 武智麻呂は言った。ふたりとも、麻呂の選んだ男たちだ。なにをどうすればいいかはわきまえているはずだった。
 粗末な服を着た男がふたり、曹司に入ってきた。
「わたしに話したいことがあるとか」
 対座して平伏するふたりに武智麻呂は声をかけた。
「はい。国家の一大事にございます」
 漆部君足が平伏したまま言った。
「一大事だと」
「はい。わたしどもは左大臣、長屋王の悪行を訴えに参りました」
「話してみよ」
 ふたりは顔を上げた。ふたりとも顔が汗で濡れている。外は季節外れの雪が舞っており、空気は氷のように冷えている。汗は緊張がもたらしているのだ。
 漆部君足が生唾(なまつば)を飲み込み、口を開いた。
「長屋王は左道(さどう)を学び、国家を傾けようと謀(はか)っております」
「そのとおりでございます。皇太子様が身罷(みまか)られたのも、長屋王の呪(まじな)いのせいです」
「聞き捨てならんな。それはまことか」
「はい。まことに相違ありません」
 武智麻呂はふたりを睨んだ。ふたりは亀が頭を甲羅に引っ込めるようにして平伏した。
「長屋王様が本当に皇太子様に呪いをかけたとして、どうしてそなたたちがそれを知っているのだ」
 ふたりは顔を見合わせた。武智麻呂は苛立(いらだ)ちを露わにした。
「麻呂からどう話せばよいのか、聞いているであろう」
 小声でふたりを叱責する。
「は、はい。佐保(さほ)の邸に出入りしているときに、長屋王が左道の呪(まじな)いを行っているのを見たのです」
「わ、わたしも見ました」
 武智麻呂は大きくうなずいた。
「長屋王が密かに左道を学び、国家を傾けんとし、皇太子様に呪いをかけた。それに違いないな」
「違いありません」
「わかった。このまま待て」
 武智麻呂は立ち上がり、曹司を出た。配下の者を呼び寄せ、耳打ちした。
「議政官たちと、舎人親王(とねりしんのう)様、新田部親王(にいたべしんのう)様をすぐに呼ぶのだ。内密にだ。だれにも知られてはならん。特に、内臣(うちつおみ)に気づかれぬよう、気を配れ」
「かしこまりました」
 配下は足早に去っていった。武智麻呂は曹司に戻った。
「よくやってくれた」
 ふたりをねぎらう。
「わたしたちは左右京大夫様に言われたままにしただけのこと」
 中臣宮処東人が答えた。
「まことに、これだけのことで位階をいただけるのでありましょうか」
「藤原の者が約束を違えることはない。安心しろ。これから、親王様たちと議政官たちが来る。みなの前で同じ話をするのだ」
「中納言様おひとりの前でも体が震え、声がうまく出ませんでした。それが大勢となると、自信がありません」
 漆部君足の表情は今にも泣き出しそうだった。
「これからにそなたたちとそなたたちの一族の将来がかかっているのだ。腹を据えろ」
「わかりました」
 漆部君足は額を濡らす汗を拭った。
 足音が近づいてきた。
「中納言殿、なにごとですか。この者たちは何者です」
 足音の主は阿倍広庭(あべのひろにわ)だった。
「議政官全員と舎人親王様、新田部親王様も参ります。全員が揃ったところで話をしますので、しばしお待ちを」
 阿倍広庭は不安そうな表情を武智麻呂に向けた。
「なにがはじまるのです」
「お待ちください」
 時を置かず、議政官たちが続々と集まってきた。大伴旅人(おおとものたびと)の姿はない。長屋王討伐に反対するであろうことを見越して、昨年のうちに大宰帥(だざいのそち)として大宰府に追いやっておいたのだ。
 最後に、舎人親王と新田部親王が姿を現した。
「なにごとだ、中納言。緊急の用件だと聞いたが」
「この者たちは漆部君足と中臣宮処東人と申す者たちでございます。これより、国家を傾ける一大事について、この者たちが告発いたします」
 議政官たちがざわついた。ふたりの親王は顔を見合わせただけだった。ふたりには今日、事を起こすと伝えてあった。
「話せ」
 武智麻呂はふたりに命じた。ふたりは武智麻呂に聞かせたのと同じ話を繰り返した。
「まさか、左大臣殿が左道など......」
 多治比池守(たじひのいけもり)が声を震わせた。
「なにかの間違いであろう。まさか、このような者たちの言葉を信じたりはしないでしょうね、中納言殿」
 阿倍広庭が言った。
 武智麻呂は議政官たちに顔を向けた。
「実は、わたしにも思い当たることがあるのです」
 ふたりの親王以外の全員が息を呑んだ。
「左大臣が大般若経(だいはんにゃきょう)の写経をしていたことはみなさん、ご存じでしょう。興福寺(こうふくじ)の道慈(どうじ)殿が、その検校(けんぎょう)役を務めたのですが、わたしは道慈殿から恐るべき話を聞きました。奥書(おくがき)に左道を思わせる記述があるというのです。さらには、代々の天皇は神霊である高市皇子(たけちのみこ)とその妻の加護があってこその天皇だとも記されているとか」
「なんと不敬な」
 舎人親王が口を開いた。
「それがあったからこそ、わたしはこの者たちの話に耳を傾けました。なるほど、長屋王ならば、皇太子様に呪いをかけたとしても不思議ではありません。なにしろ、立太子を祝うための謁見(えっけん)にも姿を見せなかったお方です。首(おびと)様の政に不満を持ち、その皇統を絶やして高市皇子の血を引く自分の一族に玉座を継がせようと考えたとして、なにも不思議はありません」
「馬鹿な。左大臣はそのようなお方ではありませんぞ」
 阿倍広庭が言った。
「いや。あの者ならもしかするとあり得るかもしれないぞ」
 新田部親王が阿倍広庭を睨んだ。
「しかし、新田部様、このような者たちの訴えと、左大臣の人望は秤(はかり)にかけるまでもないではありませんか」
「この者たちは命懸けで訴えに参ったのですよ」
 武智麻呂は声を張り上げた。
「左大臣の力を持ってすれば、この者たちの訴えを握りつぶすのはたやすいこと。訴えが嘘であったということにされたら、この者たちは死罪です。それでも、左大臣の悪行に見て見ぬふりができずに訴えに来たのです。わたしはこの者たちを信じます」
「中納言殿......」
 阿倍広庭は助けを求めるように舎人親王に顔を向けた。
「わたしは中納言、藤原(ふじわらの)武智麻呂を信じる」
 舎人親王が言った。その横で新田部親王もうなずいた。
「すでに、首様の命も出ております」
 武智麻呂は言った。
「首様はなんとおっしゃっているのです」
「これは謀反(むほん)である。長屋王を討て、と」
「なんと......」
 阿倍広庭は絶句した。 
「それはまことなのか、武智麻呂殿」
 多治比池守が唇を震わせながら言った。
「まことにございます」
「それが首様の命であるなら、武智麻呂殿ではなく、内臣が首様の代わりに命を我らに伝えるのではありませんか」
 阿倍広庭が喘(あえ)ぐように言った。
「内臣はどこに出かけたのか、姿が見えぬのです。それで、わたしが呼ばれました」
「こんな時に、内臣がいないですと」
「長屋王の罪は明白。首様の命も出た。我らがすべきことはもう決まっているのではありませんか。式部卿を通せ」
 武智麻呂は曹司の外に向かって叫んだ。戸が開き、戦装束(いくさしょうぞく)に身を包んだ宇合が曹司の中に入ってきた。
「式部卿、藤原宇合が謀反を鎮圧するために軍勢を率います」
「待ってください。すぐにでも軍勢を出すと言うのですか。まだ太政官(だいじょうかん)の意見も出尽くしてはいないというのに」
 武智麻呂は舎人親王に視線を送った。舎人親王がうなずいた。
「事は急を要する。長屋王がこちらの動きに気づく前に討たねばならんな」
「舎人様――」
「頼んだぞ、式部卿。まずは、長屋王の邸を軍勢で取り囲むのだ。その後、大納言、多治比池守、中納言、藤原武智麻呂と我ら皇族が長屋王を糾問(きゅうもん)することとしよう」
「式部卿、藤原宇合、六衛府(ろくえふ)の兵を率いて参ります」
 宇合は低く抑えた声で言い、一礼した。すぐに踵(きびす)を返し、曹司を出ていった。
 その後ろ姿はまさしく、一軍を率いる大将に相応しく、活力に満ちあふれていた。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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