四神の旗第十四回

     
      * * *

 宇合と麻呂はすでに自分たちの膳の前に座していた。
「遅くなった」
 武智麻呂はふたりに笑みを向け、自分の席に落ち着いた。
 兄弟が顔を揃えるとき、武智麻呂の隣には房前が座り、その向かいに宇合と麻呂が並ぶのが常だった。
 だが、今日は房前はいない。宇合が房前を呼ぶ必要はないと言ったのだ。
 もとより、武智麻呂もそのつもりだった。長い間、こらえ、待ってきたが、それももう限界だ。房前は歩み寄るということを知らない。どんなときでも我を通さねば気が済まないのだ。
「房前兄上がいないといのは、なんだか妙なものですね」
 麻呂が口を開いた。その横顔は寂しげだった。
「ならば、今からでも房前を呼ぶか」
 武智麻呂は言った。麻呂が首を振った。
「最近は頻繁に首様とお会いになられているとか」
 麻呂が酒を啜(すす)りながら言った。
「首様は皇太子の顔を見たいと、兄上は甥(おい)の顔を見たいとおっしゃって、安宿媛の邸に出入りしていると聞きました」
「相変わらずだな」
 武智麻呂も酒に口をつけた。宇合はひとり、腕組みをして思案顔だ。
「わたしは暇ですから、聞き耳を立てるぐらいしかすることがないのです」
「それで、首様とはどんなお話をされているのですか」
 宇合が腕組みを解いた。
「いろいろだ。最近の首様は左大臣と内臣を疎んじておられる。代わりに、わたしに相談を持ちかけてくるのだ」
 天皇は賢く、周到だ。表向きは長屋王に信を寄せているように振る舞っている。だが、武智麻呂の蒔いた種は天皇の胸の内で大きく育ち、花を咲かせようとしていた。
 決定的だったのは、長屋王が皇太子への拝謁を拒否したあの件だった。自分の意を敢然と拒否されたのである。
 天皇は怒り心頭に発したはずだ。
 いつか、隙あらば長屋王の喉首に刃を当ててやる。
 天皇はそう思っている。だからこそ、長屋王と手を携えようとする房前のことも煩(わずら)わしいのだ。
「それで、なにを相談されているのですか」
 宇合が重ねて訊いてくる。持節大将軍として陸奥(みちのく)へ赴いて以後、宇合は変わった。態度も言葉遣いも官吏というよりは武士に近い。
「首様と皇太子様をお守りする精鋭軍を作りたいそうだ」
「首様は長屋王が謀反を起こすとでもお考えなのですか」
「そうではない」
 武智麻呂は宇合の言葉を否定した。
「しかし、生まればかりの皇子を皇太子に据えるというのは前代未聞のこと。どこでだれが不満を溜めているか知れたものではない。首様はなんとしてでも皇太子様と安宿媛を守りたいと願っておられるのだ」
「授刀舎人寮(じゅとうとねりりょう)だけでは心許ないと思われているのですね」
 武智麻呂はうなずいた。授刀舎人として帯刀(たいとう)し、宮中の警固に当たる者たちはいるが、人数が少なすぎる。
「兄上はどうしようと思っておられるのですか」
 麻呂が口を挟んできた。
「授刀舎人寮を強大化するしかあるまい。中衛府(ちゅうえふ)と名を変え、帯刀する舎人の数を増やすのはもちろん、それ以外の人員も増やす」
「令外(りょうげ)の官ということになりますか」
 宇合が言った。令外の官とは、律令に記されていない役職のことだ。
「そうなるな。首様は中衛府をなるべく早く立ち上げたいとお考えだ。問題は――」
「その中衛府を統括する人員ですね。舎人はいくらでも集めることができる」
「おまえなら心当たりがあるのではと思ってな。陸奥へ赴いたときに、都にとどまっていたのでは作れぬ絆を作ってきたのではないか」
 宇合がうなずいた。
「中衛府には、まず、大将、少将を置く。この三つには階位の高いものを当てるつもりだが、その下の将監(しょうげん)、将曹(しょうそう」には、戦の心得がある者を据えたいのだ」
「お任せください。曹司では小刀で木簡を削る日々を送るしかないですが、戦場へ出れば有能な者たちを知っております。彼らも、小刀よりは太刀を帯びる任に就く方が嬉しいでしょう」
「頼む」
 武智麻呂はまた酒を飲んだ。
「おまえは飲まないのか」
「酒を飲むと、頭の奥がかすみます」
 宇合が言った。
「ならば、わたしの頭はいつもかすみっぱなしですな」
 麻呂が笑い、盃の酒を飲み干した。
「もうひとつ、首様から相談を受けていることがある」
「安宿媛のことですね」
 麻呂が盃を膳に戻した。
「そうだ。首様は安宿媛を立后(りつごう)したいと切に願っている。だが、これは相当に難しい」
「生まれたばかりの皇子を皇太子にするのとは話が違います。皇子は尊い血を引いておりますが、安宿媛は臣下の娘。長屋王だけではなく、ほとんどの臣下が立后には反対するでしょう」
「父上ならばどうすると思う」
 武智麻呂は宇合に水を向けた。
「時をかけるでしょう。少しずつものごとを進めていき、それと同時に己の力も蓄える。そして、ここぞというときにその力を使い、成したいことを成し遂げるのです」
「わたしもそれしかあるまいと思っている」
 武智麻呂はうなずいた。
「皇太子様のご成長を待つのだ。そして、だれもが認める皇太子になられたおりに、なぜ、自分の母は皇后ではないのかと言わせたい。天皇と皇太子が安宿媛の立后を望むのだ。反対したくても、それをおいそれと口にすることは難しくなる」
「長い時がかかりますね」
 麻呂が言った。
「十年と少しだ。長いようで短い」
 宇合が諭(さと)すように言った。
「ですが、父上は何十年も時をかけた挙げ句、本当に成したいことを成し遂げる前に死んでしまいました」
「父上は無からはじめたのだ」
 武智麻呂は麻呂の目を見つめた。
「父上ははじめ、舎人として朝堂へ上がった。だが、我々は違う。父上が登った高みに近いところからはじめられたのだ」
 麻呂がまた酒を呷(あお)った。頬が桜色に染まりはじめている。
「天皇と皇太子、そして、天皇の妃であり、皇太子の母である安宿媛、玉座をめぐる三人が、藤原の血を引いているのだ。すべて、父上が遺(のこ)してくれたものだ。父上が成し遂げられなかったことを、我々が成し遂げるためにな」
「そうですね。兄上の言うとおりだ」
「しかし、だからといって、なにもせぬままに十年の時を過ごすわけにもいかん。安宿媛の立后に向けて、少しずつ堀を埋めていくのだ」
「我らに与する者を少しずつ増やしていく。父上がそうしたように」
 宇合の言葉に、武智麻呂は微笑んだ。
「そうだ。焦ってはならぬ。少しずつ、確実に進めていく。それが政だ。長屋王にはそれがわかっておらん。だから、拙速(せっそく)に事を進め、人心が離れていく。父上の教えを肝(きも)に銘(めい)じるのだ」
 ふたりがうなずいた。
「そういえば、麻呂、最近、葛城王と親しくしているそうではないか」
 宇合が話題を変えた。武智麻呂は眉を吊り上げた。
 葛城王といえば、三千代の息子だ。藤原の血は引いていない。
「ええ、よく酒を酌み交わし、歌を詠(よ)みあったりしております」
「待て」
 武智麻呂はふたりの間に割って入った。
「いつから葛城王と親しくしているのだ」
「二年以上になりますか」
 麻呂が額に手を当てた。
 武智麻呂は視線を感じた。視線の主は宇合だった。宇合と視線を合わせ、同時にうなずく。
「おまえもそう思うか」
「ええ。そう思います」
 宇合が答えた。
「なんの話をしているのです」
 麻呂が目を丸くしている。
「三千代殿がおまえのもとに葛城王をよこしたのだ」
「三千代殿が......」
 麻呂は目を瞬いた。桜色に染まっていた頬が少しずつ血の気を失っていく。
「葛城王は、我々兄弟の動向を探っているのですね」
「それしか考えられん」
 武智麻呂が応じると、麻呂は盃に乱暴に酒を注ぎ、一息で飲み干した。また酒を注ぎ、同じように飲み干していく。
「それぐらいにしておけ、麻呂」
 宇合が麻呂をたしなめた。
「政の世界というのは、どれだけ穢(けが)れているのですか」
「葛城王と酒を酌み交わすのがそんなに楽しかったのか」
 麻呂を見つめる宇合の目は優しかった。
「三千代殿は父上をも凌駕するほど政に長けた女人だ。その息子がわけもなく近づいてきたのなら、最初から用心すべきだった。おまえが悪いのだ。他人を恨んでも仕方がない」
「されど――」
「おまえが好まなくても、藤原の四兄弟のひとりというだけで周りが放っておいてはくれんのだ。ゆめゆめ、それを忘れるな」
「兄上、わたしは悔しいのです」
「わかっている。その悔しさを糧(かて)として、歩む道の先を見据えるのだ」
「このように穢れた世界に、安宿媛や皇太子も生きていかねばならぬのですよ」
 麻呂の目尻が濡れていた。
 武智麻呂は弟たちのやりとりに耳を傾けながら酒を啜った。
 政の醜(みにく)さに憤(いきどお)り、涙を流す麻呂は、遠き日の自分を見ているかのようだった。
 若き武智麻呂もまた、同じように憤り、涙を流し、不比等にたしなめられた。
 政がいやなら、やめてしまえばよい。しかし、なにも手に入らず、なにも成し遂げられんぞ。欲しいものを手に入れるためには、身と心が穢れてもどうということはない。それが政だ。
 やめてしまいたいと何度思ったことか。自分が道を外れても、房前がいる。宇合がいる。麻呂がいる。だれかが自分の代わりを務めてくれるはずだ。
 不比等の長子。ただそれだけのことでやめずにきた。ときに臍(ほぞ)を噛み、ときに自分の振る舞いに心を痛め、しかし、自分は不比等の長子だと己を奮い立たせてきた。
 そして、気づけば、心が凍てついてしまっていた。
「麻呂よ――」
 武智麻呂は末の弟に声をかけた。
「いやならば、おまえは抜けてもいいのだぞ」
 麻呂が腫(は)れた目を武智麻呂に向けた。
「そのような思いをしてまで政に関わる必要はない。おまえは好きな酒を飲み、箏を奏でていればそれでいい。政はわたしと宇合に任せておけ」
「わたしは足手まといだと言うのですか」
「そうではない」
 武智麻呂は首を振った。
「いやならば道を外れればいい。それだけのことだ」
「わたしとて藤原の男です」
 麻呂が言った。
「この先の道はさらに険しいぞ。長屋王から政の主導権を奪うためには、わたしはなんでもやるつもりだ。房前にも嘘をつかなければならなくなる」
「わたしは平気です。安宿媛と皇太子のためになるならば、自ら進んで穢れます」
「ならばよい」
 武智麻呂は空になっていた麻呂の盃に酒を注いだ。
 不比等は優しい言葉はかけてくれなかった。ただ、現実を武智麻呂に教え、どうするかは自分で決めよと言うだけだった。
 父上のようにはなれぬか――武智麻呂は声には出さずに呟き、盃を空ける麻呂を見つめた。
 それでいい。わたしはわたしだ。
「兄上――」
 宇合が口を開いた。
「なんだ」
「長屋王がわたしを懐柔(かいじゅう)しようとしております。兄上を太政官から追い出すのに協力すれば、わたしを右大臣に引き立ててくれると」
「右大臣にだと」
「もちろん、嘘です。わたしの協力が欲しくて、でまかせを口にしたのです」
「なるほど」
 武智麻呂は顎先に指を当てた。
「長屋王はわたしを野心家だと見なしているようです。実際、わたしにも野心はあるのですが......」
 宇合が自嘲(じちょう)めいた笑みを浮かべた。
「右大臣ではなく、大納言あたりならば、もしかして、わたしに背を向けたか」
「かもしれません」
「武智麻呂兄上、宇合兄上、なにを言っているのです」
 麻呂が割って入ってきた。
「よいのだ、麻呂。我々は腹を割って話している。それだけのことだ」
「しかしながら、わたしが右大臣になりたいと言うと、長屋王は深く考えることもせず、わたしの言葉にうなずきました」
「長屋王が太政官に藤原の者を引き入れるはずがない」
「わかっております。それで、わたしは長屋王に懐柔されたふりを続けようと思っているのですが」
「それは妙案だ」
 武智麻呂は膝を叩いた。
「もちろん、あの長屋王のこと、わたしを心から信頼するようなことはないでしょうが、ここにいては聞こえない話も耳に飛び込んでくるやもしれません」
「是非、そうしてくれ。麻呂、おまえにもやってもらいたいことがある」
「なんでしょう」
「宇合が長屋王の懐に飛び込むのと同じように、おまえには房前の懐に飛び込んでもらいたいのだ」
「房前兄上の......」
「そうだ。あの者がなにを考え、どう動こうとするのかを把握しておきたい」
「血を分けた兄を探れと言うのですか」
「わたしはなんでもやると言ったし、おまえは自ら進んで穢れると言った」
「しかし――」
「いやならやめてもかまわないのだ」
「やります」
 麻呂はそう言って唇を噛んだ。
「辛くなったら正直にわたしに言え。おまえはいつでも我々の歩む道から外れてもかまわないのだ」
「兄上たちについていきます。わたしにも藤原の血が流れているのです」
「わかった。さあ、いやな話はここまでだ。今宵(こよい)は父上の思い出話に花でも咲かせよう」
 武智麻呂は盃を掲げた。ふたりの弟もそれに倣(なら)い、酒で唇を濡らした。

        * * *

 安宿媛の屈託のない笑い声が庭まで流れてきた。皇太子の泣き声がそれに続く。
 房前は足を速めた。皇太子は一旦泣きはじめると疲れ果てるまで泣き通すのが常だった。だが、房前があやすと不思議と泣きやむ。
 安宿姫と乳母が困り果てている顔が脳裏に浮かんだ。だが、房前が顔を出せばふたりは安堵(あんど)するだろう。
 箏の音がした。淀(よど)みのない拍子で落ち着いた音階が奏でられる。
 皇太子の泣き声がやんだ。
 箏の音には聞き覚えがあった。麻呂がつま弾いているのだ。
「安宿媛様と皇太子様に拝謁したい」
 房前は箏の音が流れてくる部屋の前に侍る女官に声をかけた。女官はうなずくと、部屋の中へ消えていった。ほどなくすると再び現れ、房前を部屋に入れと促した。
 安宿媛がにこやかに微笑み、その後ろの方で乳母が皇太子をあやしている。皇太子の顔にも、母とそっくりな笑みが浮かんでいた。
 箏を奏でているのはやはり、麻呂だった。
 房前は安宿媛に目礼し、部屋の隅に腰を下ろした。
 麻呂は一心不乱に箏をつま弾いている。これほど真剣な表情は見たことがなかった。
「見事だ」
 箏の音が消えると、房前は口を開いた。
「いらしていたのですか、兄上」
 麻呂が驚いたというように顔を向けた。箏に集中していて、房前が来たことに気づかなかったようだ。
「素晴らしいでしょう、兄上。麻呂兄上はこのところ、箏の腕を一段と上げているのです」
「ええ。わたしも感服いたしました」
「ふたりとも、やめてください。わたしの箏など、ほんの手すさびですから」
 麻呂は頭を掻き、満更でもなさそうに微笑んだ。
「兄上、不思議なことに、皇太子も麻呂兄上の箏を聞くと上機嫌になるのですよ。房前兄上にあやしてもらうときと同じように」
「そうなのですか」
 房前は乳母の腕に抱かれる皇太子に目を向けた。確かに、機嫌が良さそうだった。
「よく皇太子様のお顔を見に来るのか」
 麻呂がうなずいた。
「春先までは、ひっきりなしに人がやって来て、ゆっくりすることもできませんでしたが、最近はやっと落ち着いてきましたから」
「麻呂兄上が顔を見せてくれると、わたしも皇太子も心が浮き立つのです」
 安宿媛は声も表情も朗らかだった。
「兄上、安宿媛様にご用ですか。ならば、わたしはこれで失礼いたしますが」
「そうではない」
 房前は首を横に振った。
「おまえと同様、ただ、安宿媛様と皇太子様のお顔を見たくて立ち寄っただけだ」
「それなら、もう少しゆっくりしていきましょう。よろしいですか、安宿媛様」
「もちろんです。そうです、母上がお祝いにとくれた、新羅(しらぎ)の菓子があるのです。みんなでいただきましょう」
 安宿媛の声が弾んだ。外に侍っていた女官たちが慌ただしく動き出す気配がした。いちいち命じなくても、安宿媛がなにを望んでいるのか、みんな理解しているのだ。
 安宿媛は愛されている。
 天皇からも、房前たち兄弟からも、母である三千代からも、そして、仕える女官たちからも。
「昨今は、あまり佐保には顔を出していないようだな」
 女官たちの動きが一段落すると、房前は麻呂に声をかけた。
「ええ。酒に漢詩はもう飽きました。いえ、別に酒と詩に飽いたわけではなく、佐保の邸での宴が、という意味ですが」
「そうか」
「宇合兄上は相変わらず佐保に赴いて書を読み漁り、長屋王と議論を交わしているようですが」
「宇合か」
「ええ。長屋王とはよほど気が合うようです。武智麻呂兄上はさぞ、苦々しく思っていることでしょう」
「そのような話は今日はやめにしましょう」
 安宿媛が割って入ってきた。
「ほら。せっかく麻呂兄上の箏で機嫌がよくなったというのに、皇太子がまたぐずりはじめますよ」
「これはすみませんでした。兄弟の仲違(なかたが)いで安宿媛様や皇太子様を煩わせるわけにはいきませんね」
「兄上」
 安宿媛が頬を膨らませた。
「我々は仲違いをしているわけではない。少しだけ、ものの見方や考え方が違うだけだ」
「そういうことにしておきましょう」
 女官たちが菓子を載せた膳を運んできた。麻呂が子供のように目を輝かせた。
「これはまた珍しいものを。いいのですか、わたしなどがこれを食べて」
「かまいません。だれも食べなければ、結局、悲田院(ひでんいん)に運ぶことになるのです」
「それでは、遠慮なくいただきます」
 麻呂は菓子を頬張った。噛み砕いたものを飲み込もうとして、顔色が変わった。苦悶(くもん)の表情を浮かべ、胸を押さえる。
「兄上」
 安宿媛の恐怖を孕(はら)んだ悲鳴があがった。
 房前は腰を上げ、麻呂の背後に回った。両腕を抱え上げるようにして、膝で麻呂の背中を強く押した。
 麻呂が咳き込み、噛み砕いた菓子を吐き出した。荒い息を繰り返す。
「だいじょうぶですか、兄上」
 安宿媛の言葉に、麻呂がうなずいた。
「これはとんだ失態を。菓子が喉につかえてしまったようです。房前兄上のおかげで大事にいたりませんでした」
 麻呂は何度も胸を叩いた。
「菓子をつまらせるとは、童(わらべ)でもあるまいし、気をつけろ」
「申し訳ありません」
 急変した空気を察知したのか、皇太子が声を上げて泣きはじめた。
「これは皇太子様をまた泣かせてしまった」
 麻呂は慌てた様子で箏を引き寄せた。
「兄上、皇太子様をあやしてください。ふたりで力を合わせ、皇太子様を笑わせてみせましょう」
 房前が乳母から皇太子を受け取ると、麻呂が箏をつま弾いた。
 すぐに皇太子は泣きやみ、房前に笑顔を見せながら箏の音に聞き入った。
「やはり皇太子にも藤原の血が流れているのですね。伯父たちのことがとても気に入っているようです」
 安宿媛が安堵の笑みを浮かべた。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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