四神の旗第十二回

        * * *

 荒々しい足音が近づいてくる。宇合は読んでいた書物を閉じた。
 曹司でこんな足音を立てるのは戦場帰りに決まっている。
「式部卿殿、聞きましたか」
 部屋に飛び込んできたのは小野牛養(おののうしかい)だった。今日にも安宿媛が子を産むと聞いていた。その子が生まれたのだろう。
「わたしはここにいたので、なにも聞いてはいないが」
「なにを呑気(のんき)なことを」
「それで、皇子なのか。皇女なのか」
「皇子だそうです。もう、宮中は大騒ぎですよ」
 宇合はうなずいた。十年ほど前のことが思い出される。安宿媛が最初に産んだのは女児だった。あのときの期待と失望の大きさは忘れられるものではない。
 まだ皇太子だった首皇子は大いに嘆き、安宿媛もまた傷ついた。
「そうか。皇子をお産みになられたか」
 今度は安宿姫も笑顔で赤子を抱いていることだろう。
「胸が躍りますな」
 小野牛養がこれまた荒々しく腰を下ろした。
「そなたは躍っているのか」
「ええ。叛乱を鎮圧して凱旋したというのに、宇合様は式部卿に据え置かれたまま。知造難波宮事(ちぞうなにわぐうじ)に任じられたとはいえ、あんなもの、だれにでもできる仕事ではありませんか」
「わたしは喜んで役に就いているのだがな」
 小野牛養は鼻を鳴らした。
「それは宇合様だからこそ。他の者ならへそを曲げているところですぞ」
「上がつかえておるのだ。致し方あるまい」
「しかし、安宿媛様が皇子をお産みになったとあれば、話は変わってきます。宇合様が政の中央に躍り出る好期がやって来たのです」
 宇合は笑った。
「そうは行かぬ。太政官にはすでに武智麻呂兄がいて、房前兄は内臣だ。左大臣にはこれ以上、藤原の者に余分な地位を与えるつもりはないだろう」
「噂ですが――」
 小野牛養が声をひそめた。
「左大臣は式部卿たち兄弟の絆を断ち切らんと謀(はか)っているのだとか」
「くだらぬ噂だ」
 宇合は一笑に付した。
「もしその噂が事実なら、左大臣の策にはまったふりをして、地位だけを得てはいかがなのです」
 小野牛養は宇合の対応を無視して続けた。
「地位さえ手に入れれば、後はどうとでもなる。政というのはそういうものでしょう」
「そのようなことを繰り返していれば、だれも信用してくれなくなる。政というのは、そう簡単なものではないのだ」
「我々は焦(じ)れったいのです」
 小野牛養の言葉に宇合は眉を吊り上げた。
「戦場での立ち居振る舞いを見ていれば、式部卿が抽(ぬき)んでた才をお持ちなのは一目瞭然。それが藤原の三男であるという理由だけで出世を阻まれている」
「牛養、それは口にしては――」
「いっそ式部卿が長男であったらいいのに。酒に酔うと、我らはいつもそう話しているのです」
「出世が望みか」
 宇合は冷たい声を放った。
「いいえ。そうではありません。式部卿と大きな仕事をしてみたいのです。式部卿が出世して我らを引き立ててくれねば、それもかないません」
 小野牛養は声を張り上げた。頬が紅潮しているのは気持ちが昂(たか)ぶっているせいだろう。 宇合は溜息を漏らした。
「そなたらの気持ちはよくわかっている。だが、待つのだ」
「いつまで待てばいいのですか。皇子が生まれたのです。今がその時ではございませんか」
「まだだ。まだ機は熟していない」
 宇合は手にしていた書物をじっと見つめた。

        * * *

 葛城王が酒を携えてやって来た。
「まさかとは思いましたが、なぜ邸に籠もっているのです。安宿媛にお祝いを伝えには行かぬのですか」
 葛城王はすでに酒の匂いをさせていた。
「首様や臣下たちが押しかけておりましょう。わたしが出向いたところで声をかけることもままなりません。時を置いてからご挨拶にうかがおうと思っています」
「それがよいかもしれませんな。ならば、ふたりで皇子の誕生を祝いましょう」
 葛城王は家人が用意した盃に酒を注いだ。麻呂は盃を掲げ、酒を飲み干した。
「もっと喜んでおいでかと思いましたが、静かですな」
「喜んでいますとも。ただ、この後のことを思うと、心配にもなるのです」
「この後のこととは」
「首様と武智麻呂兄は、すぐにでも立太子をと動き出すでしょう。左大臣は間違いなく反対する。太政官に嵐のごとき風が吹きすさびます。それに安宿媛が巻き込まれぬかと心配なのです」
「立太子とはまた......」葛城王はまた盃に酒を注いだ。「早すぎますぞ。しきたりに従えば、もう十数年待たねば」
「古きしきたりを打ち壊して新しきしきたりを作る。それが父上以来の藤原の者の考え方です。武智麻呂兄は当然、首様にも父上の血が流れているのですから」
「なるほど」
 葛城王は舐めるように酒を飲んだ。
「いずれ、葛城王様のところへも、皇子の立太子の件で話が来ましょう。兄上のことだ、すでに、舎人親王様あたりとは話を通しているかもしれません」
「舎人親王様が......」
「ここのところ、長屋王様の政に異を唱えることが多くなっていると聞き及びました。抜け目のない兄のことです」
「もし、皇子が皇太子になるまえに首様が天に還(かえ)られたら、もしかすると長屋王の眷属(けんぞく)が玉座に就くかもしれない。舎人様はそれを嫌うでしょうな」
 葛城王がうなずいた。麻呂は密かに舌を巻いた。さすがは三千代の血を引く男だ。話の要点を掴むのが速い。
「そう思っている皇族は多いはずです。もちろん、臣下にもいますでしょう。そうした者たちを取り込み、かつ、首様のご意向があるならば、左大臣とて、皇子の立太子を阻むことは難しいはず」
「いや、恐れ入りました」
 葛城王が頭を下げた。
「なんのことです」
「麻呂殿の洞察、さすがは藤原の男ですな。わたしはそこまで考えが至りませんでした」
「安宿媛のことが心配なだけです」
 麻呂は首を振り、酒を口に含んだ。
「皇子がすぐにでも立太子されれば、中納言殿は左大臣への攻勢を強めていきますな。さすれば、左大臣も抵抗される。長屋王の政は嫌いだが、かといって、藤原の者が力を持つのも困る。そう考える者どもがどう動くか、見物ですぞ」
「他人事(ひとごと)のようにおっしゃるのですね」
「他人事ですから」
 葛城王が笑った。麻呂も顔をほころばせた。葛城王の飾らない性格が好もしい。だから、一緒に酒を飲んでいて楽しいのだ。
「しかし、藤原の血を引く皇子が皇太子になれたとして、依然、左大臣の勢力は強大ですぞ。中納言はそれに対抗しなければなりません。手っ取り早いのは、太政官に味方を多く引き入れること。となれば、宇合殿や麻呂殿の出番ではありませんか」
「それはありません」
 麻呂は首を振り、今度は自分が葛城王の盃に酒を注いだ。
「武智麻呂兄は、いずれは宇合兄とわたしを太政官に引き入れるつもりでしょう。しかし、その前にやるべきことがあるのです」
「安宿媛様の立后ですか」
 葛城王が平然とした顔で言った。麻呂は苦笑した。
「そのとおり。天皇、皇后、皇太子の三人が藤原の血を引く者になってこそ、武智麻呂兄の思うような政ができます。我らが曹司に呼ばれるのはそのときでしょう」
「立太子に立后か......左大臣という壁は厚く、高いですぞ」
「それは武智麻呂兄も承知でしょう。しかし、その壁を乗り越えねばならぬ、必ず乗り越えると決めているはずです」
「なんともまあ、恐ろしいお方たちだ」
「なにを言うのです。不比等亡き今、三千代殿ほど恐ろしい方はこの世におりませんよ」
 麻呂の言葉に葛城王がまた破顔した。
「麻呂殿の言うとおりだ。我が母より恐ろしい人間はこの世にいない。さあ、皇子と我が母のために、思う存分飲もうではありませんか」
 麻呂は葛城王の言葉が終わる前に、空になった盃に酒を注ぎ足した。

        * * *

 天皇の酒が進んでいる。滅多にないことだが、顔が赤く染まっている。自分の顔もそうなのだろうと武智麻呂は思った。
 天皇に付き合って次から次へと酒を胃に流し込んでいるのだ。
 長屋王と房前は控えめに飲んでいた。
 長屋王が思案げなのはわかる。藤原の血を引く皇子が生まれたのだ。これからどう対処していくべきか、考えなければならないことが多すぎる。
 釈然としないのは房前だ。武智麻呂と同様に喜ぶべきなのに、その顔は曇りがちだった。
 まだ、阿閇様の言葉に囚われているのか。
 武智麻呂は溜息を押し殺した。
「阿倍(あべ)が生まれてから何年経ったというのだ。もうだめなのかと何度思ったことか」
 天皇が言った。
 天皇と安宿媛の最初の子、阿倍内親王が生まれたのは九年前のことだ。武智麻呂も何度も皇子はもう生まれないのかと歯噛みした。
「氷高様は安宿媛の床に行く暇があったら他の女人と寝ろと言うのだ。それは皇太子や天皇の務め。わかっておる。わかっておるが、しかし、安宿媛以上の女人がどこにいるというのだ。なあ、中納言」
 武智麻呂は頭を下げた。
「ありがたきお言葉、ありがたき御心。安宿媛様は天下一幸せな女人にございましょう」
「だがな、中納言。世継ぎなき天皇は足下が危うい。そなたもわかっておろう。世継ぎがいてこそ、天皇は天皇たり得るのだ。だから、余も泣く泣く、他の女人と枕を並べた。だが、安宿媛に我が皇子を産んで欲しかったのだ。それを産んでくれた。こんなに嬉しいことがあるか。これですべてが安泰だ」
「仰せのとおりです」
 答えたのは長屋王だった。
「世継ぎができたのなれば、首様も心置きなくこの国の統治に専念できましょう」
 武智麻呂は続けた。
「そうだな。これからはなんの憂いもなく天皇としての責を全うできるというもの。世継ぎといえば、左大臣」
 天皇が酔った目を長屋王に向けた。
「なんでございましょう」
「皇子の立太子を急がねばならんな」
 長屋王の目つきが変わった。
「それはなりません」
 長屋王の言葉に、今度は天皇の目つきが変わった。
 武智麻呂が植え付けた種は大きく育っている。
「なぜならんのだ」
「これまでのしきたりでは、立太子の儀を執り行うのは十五歳前後になってからとなります。それまでお待ちを」
「余が待てんと言ったらそなたはどうするのだ。母上の尊称のときのように異を唱えるのか」
 天皇の目が据わった。長屋王は怯むことなく天皇に顔を向けている。
「天皇に諫言(かんげん)をするのは臣下の務めでございますから」
「諫言とはつまり、余が間違ったことをしているゆえ、その間違いを正せということだな」
「首様、それは――」
「中納言、そなたはどう思う」
 天皇が武智麻呂を見た。
「余が皇子を早く皇太子にと願うのは間違ったことなのか」
「そのようなことはございません。わたしも、できるだけ早く立太子の儀を執り行うべきだと思っています」
 武智麻呂は目の端に長屋王を捉えながら答えた。
「内臣、そなたはどうだ」
 房前は答えに詰まった。
「どうなのだ、内臣。待ちに待った皇子が生まれたのだ。余の世継ぎである。その皇子を皇太子にと願うのは間違ったことなのか。古きしきたりというものは、余の思いより上にあるものなのか」
 天皇が追い打ちをかけた。
 房前が口を開いた。
「首様の意が重要かと思います」
「そうであろう。そうであろう」
 天皇は満足げに膝を叩いた。
「しかし、首様。多くの臣下がしきたりを大切に思っていることも事実です」
 長屋王が言った。顔から表情が消えている。
「そう思っているのは臣下ではなく、そなたではないのか、左大臣。先ほどの光景を見たであろう。多くの臣下が皇子の誕生を祝うために駆けつけてきてくれた。あの者らは、皇子の立太子を同じように祝ってくれると余は思うがな」
「首様――」
「この件に関しては議論は無用だ。ただちに立太子の儀を執り行うよう、つつがなく支度をせよ」
 天皇は長屋王の言葉を遮った。
「首様――」
「この話はもう終わりだ。さあ、飲もう。皇子が生まれたのだ。我が皇子が皇太子になるのだ。こんな嬉しいことがあるか」
 武智麻呂は天皇の盃に酒を注いだ。
 長屋王は憮然としている。房前は沈んでいる。
 今、この瞬間、天皇と長屋王、いや、藤原の血を引く者と長屋王の間に亀裂が走ったことを悟ったのだ。
 その亀裂は、二度と元に戻すことはできない。
「房前、酒が進んでおらんぞ」
 武智麻呂は房前に酒を勧めた。
「はい、いただきます。兄上」
 房前が盃に残っていた酒を一息で飲み干した。武智麻呂は空になった盃に酒を注ぎながら天皇に言葉をかけた。
「左大臣と内臣、それにわたしが首様と皇太子様をお支えします。ご安心ください」
「わかっておる。わかっておる」
 天皇は破顔し、酒を飲んだ。

十一

 房前は天皇の意を汲み、すぐにでも立太子の儀を執り行うべく、仕事に忙殺された。
 年が明ける前に儀を済ませたいというのが天皇の意向だったのだ。
 天皇はこれ以上の議論は無用と言ったが、長屋王は立太子の件を、太政官で論議した。天皇の機嫌を損じるだけだからやめろと意見したのだが、長屋王は聞く耳を持たなかった。元から頑固な男だったが、このところ、それに拍車がかかっている。
 太政官では早すぎる立太子に反対する者もいたが、舎人親王をはじめとする皇族たちが天皇の望みならば致し方あるまいという態度を示し、それで大勢が決した。
 おそらく、この件は天皇の耳に入り、長屋王への不満や不信が増しているだろう。
 配下の者たちに指示を出しながら、房前は唇を噛んだ。
 武智麻呂がすべてを仕組んだのだ。
 舎人親王に根回しをし、天皇とも事前に謀った。酒の席で立太子を決めて、長屋王に抗うすべを与えぬ手はずだったのだ。
 それでもなお長屋王が抗えば、武智麻呂が天皇の心に植え付けた種がさらに大きく成長する。
 事前に察して長屋王に忠告すべきだった。
「内臣殿、一大事ですぞ」
 声を荒らげてやって来たのは多治比池守(たじひのいけもり)だった。
「どうなされました、大納言殿」
「左大臣が、立太子の儀へは出るが、安宿媛の邸へ赴いて皇子に拝謁するのは断ると言っておるのです」
「左大臣がですか」
 房前は手にしていた書類を机に置いた。立太子の儀が終わった後、諸司百官を左大臣たる長屋王が率い、新しい皇太子に謁見することになっていた。
「皇子の立太子に不満があるとしても、それは左大臣たる者のやることではない」
 房前は言った。
「わたしもそう言ったのだ。だが、左大臣は聞く耳を持たん」
 多治比池守は頬を膨らませた。
「左大臣がそのような振る舞いをしていると知ったら、首様はさぞご立腹なされるでしょう」
「内臣殿、あなたが左大臣を諭してはくれませんか」
「わたしがですか」
「さよう。頑固な左大臣も内臣の言葉には耳を傾けるかもしれません。皇子が皇太子になられるというめでたいときに、首様の機嫌が損なわれるのは......」
 多治比池守は言葉を飲み込んだ。
「そうですね。わたしが行くしかなさそうです」
「よろしくお願いいたします。なんとしてでも、左大臣を説得してください」
 房前はうなずき、腰を上げた。
「左大臣は今、どちらに」
「佐保の邸に帰ってしまわれたようです」
 房前は溜息を漏らし、曹司を後にした。
 三日前に降った雪の名残が京のあちこちに残る中、房前は先を急いだ。吐く息が白く、手足の指先が寒さに痛んだ。
 佐保の邸に着くと、すぐに長屋王のもとに案内された。だれかが来ることを予期していたのだろう。
「これは内臣殿ではありませんか。まさか、あなたが来るとは」
 長屋王は房前を見ると目を丸くした。
「わたし以外には説得できそうにないと言われてやって参りました」
「あなたでも無理ですよ」   
「なんとしてでも説得します。新しい皇太子への諸官の拝謁の儀を左大臣が率いないなど前代未聞です」
「生まれたばかりの皇子を皇太子にするのも前代未聞ではありませんか。中納言殿の横暴を黙って見過ごすわけにはいきません」
 長屋王は腕を組み、房前から目を逸らした。
「これは中納言の企みなどではありません。首様のたっての願いなのです」
「首様の心の奥で眠っていたものを、中納言殿が揺り起こしたのではないですか」
「そのようなことはないと思います。どうか、お考えを改めてください」
 長屋王が首を振った。
「それはできません。内臣殿、これはわたしの信念の問題なのです。不比等殿は多くの古きしきたりを打ち壊してきましたが、それでも、一足飛びではなく、少しずつ手順を踏まえて行いました。しかし、このたびの立太子はその手順さえ踏んでいない。断じて受け入れられません」
「首様の気持ちを逆撫でしてでも信念を貫くとおっしゃるのですか」  
「首様が間違っておられるのです。天皇が間違いを犯したとき、それを正すのが真の臣下の役目です」
「ならば、わたしも言わせてもらいましょう。曹司の主たる左大臣の間違いを正すのも、我ら臣下の務めにございます」
 長屋王の目が細くなった。
「わたしが間違っていると言うのですか」
「確かに生まれたばかりの皇子を皇太子に据えるのはいかがかとわたしも思います。しかし、それは政をなげうってまで反対するような大問題とは思えません」
「それはあなたが藤原の者だからでしょう」
 房前は首を振った。
「この国の、首様の臣下として言っているのです。わたしのことは左大臣もよくご存じでしょう。私心でものを言ったりは決してしません」
 長屋王が目を閉じた。
「無礼なことを口にしました。おゆるしください」
「いいのです。わたしに謝るぐらいなら、拝謁の儀を率いてください」
「やはり、それはできません。これが十五年後なら、喜んで諸官を率いたでしょう。しかし、生まれたばかりの皇太子はゆるしがたい」
「長屋王様が皇子の立太子を認めないのは、いずれ、自分の眷属を玉座に就けたいがためだ。そう申している輩もおります」
「わたしがそのような大それたことを......まさか」
 長屋王が目を開いた。
「もし、皇太子のいないまま、首様が倒れるようなことがあったら、長屋王様とその子息たちは有力な皇太子候補になります」
「わたしにそのようなつもりはない」
 長屋王は声を荒らげた。
「そうでしょうとも。しかし、そうは思わぬ者たちもいるのです。そうした輩の口を閉ざすためにも、どうか、お考えを改めていただきたいのです」
「言わせておけばよいのです」
 長屋王の口調は頑なだった。
「左大臣――」
「房前殿のお気持ちは重々承知しています。首様もお怒りになり、わたしへの信頼が大きく揺らぐでしょう。それでも、このたびの立太子は間違っているというわたしの考えは変わりません。お帰りください」
「左大臣、わたしの気持ちがおわかりなら――」
「お帰りくださいと言ったのです」
 長屋王は房前から顔を背けた。言葉だけではなく、顔つきも肩の強張りも頑なだった。
 房前は溜息を押し殺した。
「ならば、わたしは帰ります。しかし、これだけは言わせてください。お考えを改めてくださらなければ、首様からの信頼が揺らぐといった程度のことでは済まなくなると思いますよ」
 返事はなかった。
 房前は一礼し、長屋王のもとを辞した。
 腹立ちが収まらない。武智麻呂も長屋王も勝手すぎる。
 大切なのは正しい政を行い、常に天皇を支えることではないのか。
 腹の底で渦巻く怒りを解き放ちたいという衝動と戦いながら、房前は来た道を戻った。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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