聖火[短編小説]最終回

 年は平穏に明けて、正月は過ぎたが、とうとう聖火ランナー当選の知らせは来なかった。1月も後半に入った休日、五十嵐は北陸へ向かう新幹線に乗っていた。
 古希祝いの同窓会の開催時間は〈15時〜18時〉ということだから、いまどき東京から日帰りも可能だったが、場が盛りあがったときのことも考慮してビジネスホテルの予約を取っている。ちょうどうまいことに妻も泊まりがけの吟行に出ていた。
 五十嵐がこの新幹線に乗るのは初めてのことだったが、長野のあたりからは本当にトンネルが多い。車窓の景色が途絶えた長いトンネルのなかで、五十嵐はマコの手紙をこっそり取り出して、何かの予習でもするような感じで文章を読み直した。
 この手紙を最後にぷっつり音信不通になってしまったような印象が残っていたのだが、果してそうだったのだろうか。そもそも半年ばかり、手紙のやりとりをしていただけで、恋愛をしている若い男女らしいシーンは思い浮かんでこなかった。
 そういえば、手紙の交換が盛りあがっていたクリスマスか年の暮れ、雁木の町並みが続く隣り町の劇場でクレージーキャッツと怪獣映画の2本立てを観たことがあったなぁ......あれがデートといえば唯一のデートだったかもしれない。
 五十嵐が回想するうち、トンネルをぬけた列車は日本海側に出た。車窓は一面の銀世界に変わっていた。
 同窓会の会場は五十嵐が予約したビシネスホテル内の宴会場だった。七十歳の古希を迎える学年5クラスを対象にした会だったが、団塊世代で人数が多かった時代だから、百人余りの参加者が小さな宴会場に集まっている。部屋隅に設けられた即席の喫煙スペースから、白煙と煙草の苦い匂いが漂っているあたりがいかにも地方都市のパーティー会場らしい。3年前、しつこい気管支炎にやられてようやく禁煙した五十嵐は、そんな煙草の臭気が少しなつかしかった。
 顔なじみの人を探そうとしたが、彼がこういった会合に参加したのはもう30年も前の40代初めの頃だから、思いあたる旧友が見つからない。確かそのときはクラスレベルの会だったから、マコは参加していなかった。
 マコらしき女性にターゲットを絞ってあたりを見回していたとき、人垣の向こうの壇上に立った男がマイクで呼びかけた。
「さて、ことしは東京オリンピックが開催されます。実は1964年のオリンピックのとき、われわれの学年で聖火ランナーに抜擢されて走った人がいます。3年2組の五十嵐充くん、いやいまも3年2組ってわけじゃありませんが(笑)、いらっしゃいましたらひとつスピーチを......」
 何の打診もなく、いきなりスピーチの依頼とは乱暴である。司会をしているのは、五十嵐宛ての案内状に肉筆で名を添えていた岩田という同じクラスにいた男だが、向こうも呼びこんだ五十嵐の風貌に当初ピンときていない様子だった。
 演壇の背後のスクリーンに、学校に保存されていたと思しき〝聖火を手にした五十嵐〟の写真が映し出された瞬間、場内がどよめいた。傍らに雁木の町並みがぼんやり映りこんでいる。観衆の目が〝聖火ランナーの五十嵐少年〟と〝現在の五十嵐翁〟とを見比べている。いまも一応現役のランナーであることを伝えようと、チャコールグレーのスーツの足元に合わせてきたピンク色のランニングシューズが妙に目立っていた。ちょうどこのタイプのシューズがニュースで話題になっていたこともあって、「よっ、厚底」と声が掛かった。
「実は、この写真の前に聖火を持って走っていた先輩が肉離れをおこして棄権しましてね。ラッキーにも中学生の私がトーチを手に走ることができたという......」
 五十嵐は内輪話をおもしろおかしく語ってみせた。もっとも、このアクシデントの一件は当時校内にすぐに伝わったはずだが、もはや忘れている人も多いのだろう。話しながら、目の前の観衆のなかにマコの姿を探した。あの聖火リレーの中継地点のときのように、黒目がちのオサゲ髪の少女がそこにいるような気がしたが、幻想はすぐに消えた。スピーチを終えた五十嵐は、司会の岩田から聖火に見立てた燭台付きのロウソクをもらい受けて壇を下りた。
 会場の人々は、はじめのうちこそ〝集団就職組〟と〝地元組〟のグループに分散していたが、五十嵐のオリンピック話を機に段々と入り混じって、昔のクラスや部活の仲間が寄り集まるようになってきた。話すときの仕種や癖とともに50数年前の少年少女の姿が浮かびあがってくるような感じがおもしろい。
 五十嵐は陸上部の男子2人とマネージャー部員の女子と連れだって、ホテル近くのスナックに流れた。長距離走を得意としていた外立(はしだて)という建具屋の男の行きつけらしいが、カウンターの隅に古臭いカラオケ装置が置かれた、いかにも地方のスナックだった。
 露骨に冷凍とわかるピザパイ、フライドポテトなどをつまみ、角ビンのハイボールを飲みながら、舟木一夫や西郷輝彦のヒット曲を歌った。
「梶光夫のファンだったのよ」
 マネージャーをやっていたチャコという愛称の女性が入れた梶光夫の「可愛いあの娘」という曲が終盤に差しかかったとき、五十嵐はモニターの詞を見て、アッ! と思った。
 ノーナマニサバ ヤンプーニャン
 ノーナマニサバ ヤンプーニャン
 そして、ラササーヤサーヤゲン、と続く。五十嵐はさほど好みの曲ではなかったけれど、上京してきた頃にテレビやラジオの歌謡番組でよく流れていた印象は残っている。
 曲が終わるのを見計らって、五十嵐は持ち歩いてきたマコの手紙を思いきって彼らに見せた。
「あら、そんなことがあったの、聖火リレーの後。知らなかったわ......可愛かったわよね真理子。目に入らなかったかもしれないけど、私、あなたがゴールしたとき、彼女と一緒に見てたのよ。仲良し3人組で」
 そして、横から外立が付け加えた。
「彼女、亡くなったんだよね、随分前に」
「そう、還暦の会より何年か前だからまだ50代の頃よ」
 チャコがしんみりした口調で言った。
 呆然とする五十嵐の隣りで、しばらく黙っていたもう1人の陸上部員、関根という彫りの深い顔だちをした男が、耳に被った長い白髪に手をやりながらぼそっと告白した。
「オレ、高校の頃、けっこう仲良かったんだよね、ツキあってたというか......」
 五十嵐はコンチクショー、と思いつつ、何か救われたような気分になった。
 スナックを出てホテルへ帰る頃、雪は本降りになって路面にかなりの雪が積もっていたが、翌日は朝から晴れていた。
 聖火ランナーの五十嵐が走った雁木の通りはここから近い、と聞いて、スナックで外立に書いてもらった雑な地図を頼りに彼は歩いた。やがて古びた雁木の商店通りに出くわしたが、ビルとビルの間に数軒昔の建物が残っているような状態で、中学時代の面影は感じられなかった。無論、マコと映画を観たはずの劇場ももはやない。
 そんな町の外れの寺の墓地にマコは眠っていた。3周忌のときに1度訪ねたというチャコに寺の住所と墓石の大まかな位置を伺って立ち寄った。
 側面に真理子の戒名が刻まれた香山家の墓石を確認、積もった雪を払いのけてから線香を立てて、昨日スピーチの際にもらった、トーチ風の台座にセットされたロウソクに火を灯した。まわりに人の気配がないのを察して、五十嵐は数十メートル後もどりしてから、香山家の墓に向かって走った。ロウソクのトーチを掲げて、墓前で深々と一礼すると、線香に点火した。

聖火[短編小説]

Synopsisあらすじ

70歳になる五十嵐充は、2年前から皇居まわりをランニングしている。彼は中学3年生だった前回の東京オリンピックで新潟を走る聖火ランナーを務め、それがきっかけで校内のマドンナと文通を始めた過去があった。そして2020年、古希を祝う同窓会に出席すると……。

Profile著者紹介

泉麻人(いずみ・あさと) 

1956年東京都生まれ。慶應義塾大学商学部卒業。東京ニュース通信社に入社、「週刊TVガイド」の編集のかたわら「スタジオ・ボイス」「ポパイ」などに原稿を書き始める。84年退社、フリーのコラムニストとなる。著書に『なぞ食探偵』『東京ディープな宿』『昭和40年代ファン手帳』『東京いい道、しぶい道』『還暦シェアハウス』『東京23区外さんぽ』『大東京のらりくらりバス遊覧』など多数。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー