聖火[短編小説]第3回

 セーラー服の女子学生が日の丸の小旗を手に3人並んでいた。五十嵐が通学していた中学の同じ学年の女子だったが、クラスが違うのでさほど言葉を交したことはない。3人とも校則に従って、おさげ髪を三つ編みにしていたが、真ん中に位置していた香山真理子は黒目がちのチャーミングな目をした、校内でもとびきりの美少女だった。
 群衆のなかの真理子と目が合った瞬間、まさに「ドキン」と響くような音をたてて胸が鳴った......その感触がいまも五十嵐の記憶の底に残っている。そして数日後、人気(ひとけ)のない校舎の廊下の一角で彼女の方から声を掛けられた。
 「2組のイカラシくんでしょ? こないだの聖火、カッコ良かったわ」
 真理子が〝イカラシ〟と濁点なしで正確に発音したことを彼はよく憶えている。ランナーの五十嵐よりもむしろ聖火そのものがカッコ良かった、ともとれる発言だったが、ハキハキとした、いかにも自信に満ちあふれた人気女子学生らしい口調だった。
 以前から、彼女の存在を気にかけていた五十嵐だったが、不意に向こうから声を掛けられて、大した言葉も返せなかった。
「どうも、急にあんなことになっちゃってね、熱いんだよ聖火って......」
 なんて、わけのわからない返答をもごもごとしたような記憶がある。 
「ねぇ、良かったら、私と文通してくれません?」
 真理子が切り出したのは、西陽の射す校庭に「アニー・ローリー」という校内放送の下校の曲が流れていたときだった。
 まだその時期、五十嵐は集団就職で上京するより半年近く前のことだから、「文通」の誘いというのも妙な話だが、当時、校内の男女の間でも手紙のやりとりをするのがちょっとしたハヤリになっていた。「愛と死をみつめて」の影響である。
 不治の病いに冒された女子高校生と大学生との間で交された〝愛の往復書簡〟をもとに刊行された「愛と死をみつめて」は、オリンピックが開催された64年の春の頃からベストセラーとなって、テレビドラマ化され、さらに吉永小百合と浜田光夫の共演で映画化、青山和子の歌もヒットして、社会的なブームになっていた。「愛と死----」の2人は男性の愛称がマコ、女性の愛称がミコだったが、五十嵐の名前はミツル、青山の名前はマリコで、逆ではあるけれど彼らも、「ミコとマコ」のカップルだった。
 もしや、真理子は「ミコ」と呼べる相手という条件で近づいてきたのかもしれない......五十嵐は邪推したことがあった。
 彼らの中学校では学年単位の名簿が配られていたので、お互いの住所を知ることはできたが、親に妙な勘操りをされるのはめんどうということで、手紙の交換場所として校内の靴箱(ゲタ箱、と呼んでいた)が選ばれた。外履の靴から内履の靴に履きかえる習慣が根着いていた当時の中学校において、玄関の靴箱はそういう男女の秘めた文書や贈り物の中継地として、よく利用されていた。もっとも、暗証番号でロックを解くような仕掛けは施されていなかったから、他人が容易に開けることはできる、危っかしい場所ではあった。
 ともかく、10月10日にオリンピックが開会されてまもない頃から手紙のやりとりは始まった。もはや細かい内容は忘れてしまったが、「重量あげの三宅が金メダルを取りましたね」とか、「ボブ・ヘイズは9秒台で走るかしら?」とか、「チャスラフスカ、チャスラフスカ、チャスラフスカ、って3回早口で言ってみて」とか、オリンピック競技をめぐる話題が交されたことを五十嵐はぼんやりながら記憶している。いや、実は彼女からの手紙を1通だけ彼は手元に保存していた。それは、靴箱をポストに使っていた現役時代のものではなく、上京してまもない初夏のころに五十嵐が暮らす会社の寮に郵送されてきたものだった。

ミコ、東京のくらしにはなれましたか? 工場で即席ラーメンを作ってるって聞きましたが、その会社、新潟のお店では見かけないのでこんどデラックスなやつを送ってください。ところで前の手紙で書いた部活のこと、迷ったけど結局バレーボール部に入りましたよ。オニの大松ならぬ、カニの高松って呼ばられてるガニマタの部長先生に、日夜シゴかれています。
ミコ、銀座のミユキ族みたいな不良になっちゃダメよ。最後にオマジナイを。
ノーナマニサバ ヤンプーニャン
ラサ サーヤサーヤゲン                       マコより

 40・6・25(昭和40年6月25日)の消印が封筒に残っているこの1通が彼女からの最後の手紙となった。そう、これに触発されて銀座に繰り出して、ひどい目に遭ったのだ。
 文末にあるオマジナイ「ノーナマニサバ ヤンプーニャン」のフレーズ、どこかで見聞きしたことがある。当時はピンときたのだろうが、五十嵐は明確に思い出せなかった。
 古希祝いの同窓会の知らせとともに、年季の入った封筒に収められた手紙をホックで留めて、書斎の気分で使っている部屋の机の抽出の奥にしまいこんでいた。

 半蔵門から下っていく三宅坂のユリノキの並木もいつしか葉が落ちて、すっかり冬枯れの景色になった。五十嵐は例のごとく憲政記念館の前庭に入って、日本水準原点標庫の前で走り終わりのストレッチ体操をすませると、行きつけの銭湯に向かった。12月も暮れが押し迫ったこの日は、ランナー仲間たちとちょっとした忘年会をやるつもりできたので、いつもよりスタートを遅らせた。時刻は4時を過ぎて、外は早くも仄暗くなり始めていた。
 銭湯の玄関口で、またもや銀座のバーテンダーの青年と鉢合わせした。
「5時半スタートでしたっけ? ちょこっと顔出しますよ、じゃ後ほど」
 神保町の居酒屋で催す忘年会に彼も参加するようだ。それと、カオルコさんと呼ばれているアラフィフ見当の女性ランナーがやってくるという。幹事役は石橋だったが、2週間ほど前にこの会合の連絡をもらったとき以来、メールのやりとりもしていない。件の聖火リレーランナーの当選発表は、12月中旬から始まっていると聞いたので、彼がどうなったのか......気になっていた。
 神保町のすずらん通りの横道を入ったあたりのその店は、かなり早くから開けているようで、6時前というのにけっこう出来あがった客のグループが見受けられた。
 定刻どおりに来たのは五十嵐とバーテンダーの青年だけで、話題が切れて酒のピッチが早まった頃、石橋が女性を2人連れて入ってきた。
「いや、そこでバッタリ会いまして」
 1人はランナー仲間のカオルコさん、もう1人は彼女の友人のようだ。そもそもカオルコという女性は石橋に誘われて皇居まわりを走るようになった、と聞くから、店前でバッタリ会ったというのはウソかもしれない。そして、彼女が連れてきた友人女性は〝昔の同級生〟とのふれこみだったが、美貌は老けこんで、カオルコさんより遙かに劣っていた。
「なるほど彼女は若い頃から必ずこういう席に、自分が映えるような友人を伴うタイプだったんだな......」と、もちろん口には出さなかったが、五十嵐は分析した。
 カオルコさんは〈ビューティー・アドバイザー〉と肩書を記した名刺を五十嵐に差し出し、連れの女性も仕事のサポートをしているらしいが、結婚しているのかどうかもハッキリしなかった。2人の女性の簡単なプロフィール紹介を聞いて、バーテンダーの青年が、「そろそろ店に出ないと」と告げて席を立った。
 それを1つのきっかけにするように、石橋が口をもごもごとさせた後、五十嵐に向って切り出した。
「どうでした聖火ランナー、ボク当たりましたよ、ようやく連絡きたんですよ昨日」
 一瞬曇った五十嵐の顔色を察して、
「いや、まだわかりませんよ。年内までに発表っていうけど、多少こぼれたりするでしょ、ああいうのは」
 落選者に連絡はない、と応募規約に出ていた。五十嵐は落胆した思いをごまかすように水割りの焼酎をロックに変えた。
 そして、酔いも手伝って、中学時代に聖火ランナーを経験したエピソードを語りはじめた。
「へー、そりゃすごい。知りませんでした。新潟の......あー、高田とか、あっちの方ですか。雪が一番積もる町なんて社会科の授業で習いましたよ」
 石橋が素直に驚ろいたような反応をした。
「えー、それでもうオリンピックの後の春には東京出てきちゃいましたから......」
 聖火ランナーの話は自慢ではあったが、〝中卒〟であることを隠したいこともあって、これまで口にしなかったのだ。
 話を聞いている石橋も、自分の方から五十嵐が中卒であることにふれたがらない様子で、用心深い顔つきをしてフンフンと頷いている。
「来たときはベンチャーズとかアイビーとかハヤッてたでしょ、こっちは中卒で上京して夜間行きながら板橋の工場でラーメン作ってた田舎もんだから、もう銀座なんか目きょろきょろさせて歩いちゃって。あげく、都電でスリにやられちゃってひどい目に遭いましたよ」
 五十嵐は、お坊っちゃん学校育ちの石橋に向かって、ちょっと攻撃的に喋った。そういう恵まれた環境で育ってきた男の方に「聖火ランナーが当たる」というのもおもしろくなかった。
「なるほど、じゃわれわれがいつも走ってる三宅坂の警視庁、青春の思い出の場所ってわけですね」
 石橋がやんわりと冗談で落して、傍らの女性2人がホッとしたように笑った。
「しかし、聖火ランナーってのは憧れでしたよ。いまどの辺まで聖火が来たか、みたいな情報が毎日のように新聞に載って、選抜された高校生が取材されていたりしたでしょ?」
 と石橋がうらやましそうに語り、
「五十嵐さん、モテたでしょ? ヒーローですもんね」
 カオルコさんが若干色っぽい目つきで五十嵐を見つめた。
「ええ、まぁ小っちゃい町ですからねえ......。実はそれがきっかけでちょっと仲良くなった女の子がいましてね。年明けの同窓会で会えるかどうか、ひそかに期待しているんですよ」
 五十嵐は弾みにまかせてそんなことまで語り、「女の子」のところで不意に小指を立ててしまったことを少し後悔した。
 マコの手紙にあった「ノーナマニサバ ヤンプーニャン」のフレーズを、事情は明かさずにそれとなく皆に尋ねてみたが、「あったね、そういうの。ひょっこりひょうたん島の何かの合言葉?」「魔法使いサリーちゃんの呪文じゃない?」「それはマハリクマハリタ」なんて会話がやりとりされて、話は終わってしまった。

聖火[短編小説]

Synopsisあらすじ

70歳になる五十嵐充は、2年前から皇居まわりをランニングしている。彼は中学3年生だった前回の東京オリンピックで新潟を走る聖火ランナーを務め、それがきっかけで校内のマドンナと文通を始めた過去があった。そして2020年、古希を祝う同窓会に出席すると……。

Profile著者紹介

泉麻人(いずみ・あさと) 

1956年東京都生まれ。慶應義塾大学商学部卒業。東京ニュース通信社に入社、「週刊TVガイド」の編集のかたわら「スタジオ・ボイス」「ポパイ」などに原稿を書き始める。84年退社、フリーのコラムニストとなる。著書に『なぞ食探偵』『東京ディープな宿』『昭和40年代ファン手帳』『東京いい道、しぶい道』『還暦シェアハウス』『東京23区外さんぽ』『大東京のらりくらりバス遊覧』など多数。

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