持続可能な魂の利用第8回

「前見た時よりきれいになったね」
 支払いを済ませ、奥のカウンターで持ち帰りのカフェオレが出てくるのを待っていると、店の中に入ってきたばかりの五十代くらいの男性が、カウンターの奥にいる若い女性にそう軽口をたたいた。人の外見をいじってコミュニケーションを取ることに疑問を感じないタイプらしい。
「おじさん」発見。
 敬子は心の中で思うと、手渡されたプラスチックの蓋付きのカップを包み込むように両手で受け取る。巻かれたダンボール素材のスリーブが手の中でずれた。
「毎回言ってますよそれ」
 白い布巾を片手に持った女性店員は受け流すように返事をすると、腰をかがめてコーヒーメーカーのメンテナンスを続けた。
 カウンターに立っている男性店員が注文を取ったが、「おじさん」はまるで聞かせるように必要以上に大きな声でオーダーし、彼女をチラチラと見ては、さらに話しかけるきっかけを窺っているようだった。彼女は振り返らず、全神経を集中させるようにコーヒーメーカーに向き合っていた。
 敬子はそわそわしている「おじさん」の後ろを通って店から出ると少し歩き、この前見つけた小さな公園に入っていった。
 公園の中ほどに突っ立った大きな時計によると、三時を少し過ぎている。
 住宅街と繁華街の境目が曖昧な街にある公園の中では、子どもたちを遊ばせている母親たちが談笑するベンチの横を、夜の営業用の食材が入ったビニール袋を両手に提げた料理人らしき男性が通り過ぎていく。
 敬子は公園の端にあるベンチの一つに座った。色あせたベンチはベンチとしての寿命を予感させる灰色と白色が混ざったような色に変色していて、かつてどんな色だったかもうわかりようもない。
 カフェオレと一緒に買った個包装のアップルパイをかじりながら、敬子はスマートフォンでニュースを流し読みした。
 国を代表してインドネシアに遠征していた二十代のスポーツ選手数名が、現地で買春をしたと問題になっていた。海外出張のたびに買春の絶好の機会だとばかりにはしゃいでいる、いまだバブル時代をひきずった「おじさん」と違わぬ態度は、とても醜悪だった。
 ほかのニュースでは、殺害された若い女性の服装が派手であること、彼女が夜の仕事に就いていたことを理由に、だからこういう目に遭うのだという論調がコメント欄に溢れていた。記事には、派手なメイクをしてピースサインをしている被害者の写真がわざわざ添えられている。
 違う二つの事件は、まっすぐな糸でつながっているように敬子には思えた。
 敬子はスマートフォンを膝の上に置くと、カフェオレを一口飲んだ。
 子どもたちが遊んでいる方向の空気が変わった。
 敬子が目を向けると、少し離れたところにいたはずの母親たちが、砂場で見事なお城を建設中の子どもたちを取り囲むようにして、さりげなく壁をつくっていた。
 その奥では、いつの間にか現れた六十代くらいの男性がにやにやと佇み、不恰好に構えられた携帯電話のカメラは、どうやら女の子たちを狙っているようだった。母親たちはおおごとにしないようにと、背中で娘たちを守っていた。
 何十年も前の「おじさん」の記憶が蘇り、敬子は薄ら寒い気持ちになった。
 小学生の頃、敬子が一人でとんぼを捕まえていると、見知らぬ若い男性が近づいてきて、向こうにもっととんぼがたくさんいるから、一緒に行こうと声をかけてきた。「おじさん」は、高校生か大学生ぐらいに見えた。もしかすると中学生だった可能性もある。
 淡々と、当たり前のように敬子を見つめてくる相手の眼差しに体が動かなくなり、なんとか首を横に振ると、そう? と「おじさん」はまた何事もなかったように去っていった。
 敬子は「おじさん」がいなくなったことに安堵し、もしついていっていたらどんなことになっていただろう、というところまで意識が及ばず、とんぼはどうなっただろうとすぐに気持ちを切り替えた。
 声をかけられたことで手元が狂ったらしく、敬子が下ろした網はとんぼの胴体の真ん中あたりを貫いており、網を上げると、かたい葉っぱの上には二つに切断されたとんぼの姿があった。敬子はようやく悲鳴を上げた。
 中学生の下校時、いつも通り裏門から出て、短い横断歩道を渡ると、そこにシャツにチノパン姿の「おじさん」が立っていた。今思い返してみると、三十代くらいだったのかもしれない。
 首からカメラを提げている「おじさん」は、通り過ぎようとしている敬子の行く手を遮るように横から出てくると、写真を撮らせてほしいと請うた。
 再び、なんとか首を振って敬子が断ると、「おじさん」は静かに持ち場に戻った。また裏門から女子生徒が出てくるのを待ち構えるために。
 数年前、公園や様々な場所で声をかけて被写体にした少女たちの写真を展示する『声かけ写真展』が開催され、炎上し、自分と同じように声をかけられた少女たちが無数にいるのだと敬子は知った。少女時代のかつての自分の写真が、今になって勝手に展示されていることを知らないままの女性たちもたくさんいたはずだった。
 こういった「おじさん」による被害に、思えば、敬子は、日本の女性たちは、幼い頃から対峙してきた。
 自分たちをなめるように見る視線、あわよくば何かできるのではないかと近づいてくる大きな体、突如として発せられるグロテスクな言葉、そしてそのすぐ延長線上にある痴漢や盗撮といった犯罪。犯罪であるはずなのに、十分な対策が取られないまま何十年経ったのか。
 学校、職場、どこにいっても「おじさん」がいた。
 人生は、ある意味「おじさん」への知見を深める場だった。瞬時に「おじさん」かどうかを判断できるほどには、日本の女性たちは「おじさん」の性質に詳しかった。「おじさん」が気づいているよりもずっと、「おじさん」はわかられていた。

 一つ、「おじさん」に見た目は関係ない。だが、見た目で判別がつくことは確かに多い。特に、目つき。特に、口元。

 一つ、「おじさん」は話しはじめたらすぐにわかる。

 一つ、どれだけ本人が「おじさん」であることを隠そうとしても無駄な努力である。どこかで必ず化けの皮が剥がれる。けれど、「おじさん」であることを隠そうとする「おじさん」は実はそんなにいない。「おじさん」はなぜか自分に自信を持っている。

 一つ、「おじさん」に年齢は関係ない。いくら若くたって、もう内側に「おじさん」を搭載している場合もある。上の世代の「おじさん」が順当に死に絶えれば、「おじさん」が絶滅するというわけにはいかない。絶望的な事実。

 一つ、「おじさん」の中には、女性もいる。この社会は、女性にも「おじさん」になるよう推奨している。「おじさん」並の働きをする女性は、「おじさん」から褒め讃えられ、評価される。

 思えば、「おじさん」が存在しない場所など、果たしてこれまでにあったのだろうか。
 それなのに、数え切れないほどの「おじさん」との嫌な出来事に蓋をするようにして、まるで何でもないかのように敬子は生きてきた。それ以外の生き方など想像したこともなかった。周囲の女性たちもそうしているように見えたから。これが普通なのだと思い込んでいた。
 あの瞬間、前に働いていた会社の小さな会議室で、敬子の主張などはなから信じる気もなかった「おじさん」たちから見下したような目で睨め付けられた瞬間、敬子は覚醒した。
 この目を知っている、この目が私はずっと大嫌いだった。私のことを物のように見る、人間扱いしないこの「おじさん」の目が。大嫌いだった。大嫌いだ。
 そうわかるまでに、ここまで時間がかかったことが、敬子は信じられなかった。こんな特異な出来事が自分に降りかかってはじめて、ようやく気づくことができた。
 女の子たちの声が心なしか大きくなる。
 写真を撮れないことに落胆したのか、「おじさん」が公園の外に消えていく。
 肩の力を抜いたように、砂場のふちに腰をつき、笑い合う母親たちの姿を見ていると、敬子の頭の中に、
「毎日がレジスタンス」
 という言葉が浮かんだ。
 昔、「毎日がスペシャル」と有名な女性歌手が歌っていた。陽気な、楽しげな歌だ。当時は敬子もよく口ずさんだ。
 でも、今の敬子に実感があるのは、「毎日がレジスタンス」だ。抗い続けなければ、どの瞬間にも、「おじさん」の悪意に、「おじさん」がつくったこの社会の悪意にからめ取られてしまう。常に防衛するのが当たり前の普通の生活を日々送っている日本の女性たち。
「毎日がレジスタンス」
 敬子はもう一度そうひとりごちると、アップルパイの残りを急いで食べた。あと五分で短期バイトの休憩時間が終わる。走らなければいけない。

持続可能な魂の利用

写真:岩倉しおり

Synopsisあらすじ

ある日、カナダから帰ってきた敬子は気づいてしまった。日本の女の子たちが〝最弱な生き物〟であることに――!「アンデル 小さな文芸誌」にて連載された、松田青子による「持続可能な魂の利用」がWebBOCにお引っ越し&再スタート。日本にはびこる悪しき因習に切り込み、世界を呼吸のしやすい場所にする。人生を楽しくパワフルに変身させる物語の誕生です。

Profile著者紹介

松田青子(まつだ・あおこ)

1979年、兵庫県生まれ。同志社大学文学部英文学科卒業。著書に『スタッキング可能』『英子の森』『ワイルドフラワーの見えない一年』(以上、河出書房新社)、『おばちゃんたちのいるところ』(中央公論新社)、翻訳書に『狼少女たちの聖ルーシー寮』『レモン畑の吸血鬼』(以上、カレン・ラッセル/河出書房新社)、『AM/PM』(アメリア・グレイ/河出書房新社)『問題だらけの女性たち』(ジャッキー・フレミング/河出書房新社)、エッセイ集に『読めよ、さらば憂いなし』(河出書房新社)、『ロマンティックあげない』(新潮社)などがある。

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