北条氏康第二十三回

二十三

 十日ほどすると、勝千代(かつちよ)はかなり回復した。腕と足を骨折したので、まだ剣術稽古は無理だが、ずっと寝たきりでいる必要はなくなった。
 勝千代自身、寝てばかりいると退屈なので、剣術が無理なら学問だけでも始めたいと言い出した。
 伊豆千代丸に兵書を講じているのは香山寺(こうざんじ)の宗真(そうしん)で、二日に一度、韮山から小田原にやって来る。
 宗真は伊豆千代丸の部屋で講義をする。伊豆千代丸だけでなく、乳母子の平四郎(へいしろう)も一緒だ。怪我をするまで、勝千代も一緒だったが、今の体では難しい。
「よろしければ、わたしが」
 と、小太郎が教授役を買って出た。
 小太郎は勝千代の病室に出向いて講義をすることにした。それならば、勝千代は体を起こすだけでいいし、辛いときには寝たままでも構わない。いくら怪我のせいだとはいえ、宗真や伊豆千代丸がいるところで横になったままで講義を受けることはできない。小太郎と二人きりだからこそ許される。あまり長い時間、講義を続けると、勝千代が疲れてしまうので、講義は午前と午後の二回、それぞれ半刻(一時間)ずつ行うようにした。
「青渓(せいけい)先生」
 勝千代は、小太郎をそう呼ぶ。
「何かな?」
「人は死ぬと、どうなってしまうのでしょうか?」
「どうした、突然?」
「善行を積めば極楽に行き、悪行を積み重ねれば地獄に墜ちる......そう信じてきました」
「うむ」
「しかし、猪に突き飛ばされて生死の境をさまよったとき、たぶん、もう死にかかっていたのではないかと思うのですが、わたしは地獄でも極楽でもないところにいたのです」
「ほう。どこにいたのだ?」
「うちです」
「うち?」
「はい。駿府(すんぷ)の屋敷にいました。わたしが生まれた屋敷です。父と母がおりました。父は、とても怖い顔をして、ここはおまえのいる場所ではない、さっさと出て行け、と怒鳴るのです。わたしは驚いて、母に助けを求めました。母はいつも優しかったからです。ところが、母までが、まるで夜叉(やしゃ)のように恐ろしい形相で、なぜ、父上の指図に従わぬ、さっさと出て行くがよい、と怒るのです。わたしは恐ろしくなって屋敷から走り出たのです」
「それで?」
「泣きながら走っているうちに急に地面が大きく揺れ出しました。ものすごい揺れで、気が付くと、周りの地面が大きく割れていて、何とか屋敷に戻ろうとしましたが、足を滑らせて割れ目に落ちてしまいました。それきり何もわからなくなってしまって......」
「で、目を覚ましたら、ここにいたということかな?」
「そうなのです。なぜ、地獄や極楽ではなく、駿府の屋敷にいたのか......」
 勝千代が首を捻ったとき、廊下から、わはははっ、と大きな笑い声が響いた。
「夢を見たに決まっておるではないか。まだ生きていたから地獄にも極楽にも行かず、のんきに夢など見ていたのであろう。勝千代は阿呆じゃのう」
 伊豆千代丸が部屋の中を覗き込む。
「若君でしたか」
 小太郎が姿勢を正す。
「いかに若君とはいえ、人を阿呆呼ばわりするのは無礼ですぞ」
 勝千代がムッとする。
「そう怒るな」
 伊豆千代丸が病室に入ってくる。その後ろから平四郎と奈々、お福の三人も続く。
 勝千代を囲むように伊豆千代丸、平四郎、奈々が腰を下ろす。お福は部屋の隅に控える。
「元気そうではないか」
「すっかり元気になりました」
「ならば、わしらと共に学問すればよい。なぜ、小太郎と二人でこそこそしているのだ?」
「別にこそこそしているわけではありませぬ」
 お互い悪気はないのだろうが、伊豆千代丸と勝千代が面と向かうと、どうしても刺々(とげとげ)しいやり取りになってしまう。本来ならば、家臣という立場にある勝千代が口を閉ざすべきだが、そういうおとなしい性格ではない。
「今の体では正座して文机に長い時間向かっていることが難しいのです」
 小太郎が二人の間に割って入る。放っておくと、今にも取っ組み合いの喧嘩でも始めそうな雰囲気だからだ。
「そのように姿勢を崩していればよい」
「そうはいきませぬ。宗真さまは学問の師であられます。師に学ぶときには礼を尽くさなければなりませぬ」
「小太郎には、そうしなくてもよいのか?」
「わたしは勝千代の見舞いに来て、四方山(よもやま)話をするついでに学問の話もするというくらいですから、そう改まる必要もありません。二人きりで、誰も見ていませんから、少しくらい行儀が悪くてもいいのです」
「ふうん、そういうものか......」
 伊豆千代丸は勝千代を見て、
「剣術稽古は、いつからできるのだ?」
「できるだけ早くやりたいのですが、医師からは年内は我慢するようにと言われています」
「あとひと月くらいは無理ということか。まあ、仕方ないのう。しかし、弁千代(べんちよ)が相手ではつまらなくてのう」
「もう若君には歯が立たなくなってしまったと弁千代が悔しそうに話しておりました。よほど悔しいらしく、朝と夜の稽古時間を増やしているそうです」
「そう聞くと、わしものんびりしてはいられぬ。学問にも剣術稽古にも励まねばな。今のところ、学問では平四郎に及ばぬし、剣術では勝千代に及ばぬ」
「よい心懸けでございます」
 小太郎がうなずく。
「親しき友同士が切磋琢磨することで、学問も進み、剣術の腕も上がるでしょう」
「小太郎もそうだったか?」
「はい。足利学校には良き友がおりました。彼らのおかげで苦しいときも耐えることができたのです」
「ふうん、その者たちは、どうしているのだ?」
「わかりませぬ」
 小太郎が首を振る。
「もし一人前の軍配者になることができれば、いずれ戦場で相見(あいまみ)えることができるでしょう」
「友と戦うのか?」
「それが軍配者の宿命なのです」
「では、わしが勝千代や平四郎と戦うこともあるのかな?」
「それは、ありませぬ」
 小太郎が笑う。
「なぜだ?」
「勝千代も平四郎も、北条の家臣として若君を支えることになるからです。力を合わせて、北条に刃向かってくる者たちと戦うことになるでしょう」
「それを聞いて安心した。親しき者と戦うのは辛そうだからのう」
「若君、勝千代は疲れているようです。少し休ませてあげてはいかがですか?」
 お福が声をかける。
 確かに勝千代は顔色が悪くなっている。伊豆千代丸の前だから、気を張って無理をしているのであろうが、ずっと体を起こしているのは辛いに違いない。
「わかった」
 伊豆千代丸が立ち上がる。
「また来るぞ。養生して、早くよくなれ」
「ありがとうございます」
「おまえが寝ている間に、わしは剣術稽古に励むぞ。手合わせが楽しみじゃのう」
「若君には決して負けませぬ」
 気の強そうな顔で、勝千代が伊豆千代丸を睨(にら)む。
「ふんっ、わしも負けぬわ」
 負けじと伊豆千代丸も睨み返す。
 その二人を平四郎が心配そうに見つめている。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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