北条氏康第二十回

二十

「旅先で酒を口にすることはない。何が起こるかわからぬ故、酔って油断はできぬからな......」
 不測の事態に備え、常に神経を研ぎ澄ませておかなければ、とても長生きできぬわ、と六蔵が唇を歪めて笑う。
「だから、村に戻れば、朝から酒を飲んだりもする。好きなように酒を飲み、好きなときに眠り、好きなときに好きなものを食う。それくらいしか楽しみがないのでな。おまえも飲むか?」
 六蔵がぐいっと茶碗を突き出す。
「いいえ、やめておきます」
 小太郎が首を振る。
「足利学校の軍配者は酒を飲んではならぬという決まりでもあるのか?」
「そうではありませぬが......」
「勝手にするがいい。わしは飲むぞ。構わぬであろうな?」
「はい」
 あずみが言ったように、この四年で小太郎も成長し、外見も変わったが、六蔵も変わった。
 四十七歳だから、平均寿命の短い、この時代においては、すでに老人の部類である。目の輝きこそ失われていないものの、顔には皺(しわ)が増え、髪も薄くなっている。深く刻まれた皺のひとつひとつが、六蔵の人生が決して平坦でも平穏でもなかったことを示しているように小太郎には思われる。
「学問を切り上げて帰国するように御屋形さまに命じられました。今後は、伊豆千代丸さまの軍配者になるために小田原で学ぶように、と」
「何を学ぶのだ?」
「北条家の軍法やしきたりなどです」
「ああ、そうか」
 さして興味もなさそうに六蔵がうなずく。酔いが回っているのか、顔が赤い。
「ゆうべ、御屋形さまに呼ばれ、風間の姓を捨て、新たに一家を立てるように言われました。風摩という家です」
「うむ、風摩か」
「ご存じですか?」
「言うまでもなく、知っている」
 六蔵がじろりと小太郎を睨む。
「承知して下さいますか?」
「御屋形さまがお決めになったことだ。わしの承知など必要あるまい」
「たとえ、わたしが風間の姓を捨てたとしても、わたしの体には叔父御と同じ血が流れています。同じ一族であることに変わりはありません。今後は、風間も風摩も力を合わせて御屋形さまのために尽くしていきたいのです」
「きれい事を言いよるわ」
 ふふふっ、と六蔵が笑う。
「いずれ風間党は風摩の風下に立つようになり、気が付いたら、風摩の支配を受けるようになってしまうかもしれぬではないか」
「そうはなりませぬ」
「なぜ、そう言える?」
「今は叔父御が風間党の棟梁です。その後は慎吾が継ぎましょう。慎吾の後には慎吾の子が」
「慎吾の子がのう。わしの孫か......」
 六蔵が遠い目をする。
「兄者もわしも妻など持てぬ身であった。妻を持てぬということは子も持てぬということだし、まして孫など持てるはずもなかったのだ。朝、目が覚めると、今日は何か食えるだろうか、明日まで生きられるだろうかと心配するような日々でな。自分も食えず、親を食わせることもできぬのに、妻など持てるはずがなかった」
 五平や六蔵が妻を持ち、子をなしたのは、二人とも三十を過ぎてからである。小田原から韮山に移り、宗瑞のために働くようになって、ようやく妻を持つ余裕ができたのである。
 四十七歳の六蔵の長男・慎吾が十八歳、長女のあずみが十六歳で、かなり親子の年齢が離れているのは、そういう事情であった。
 宗瑞に出会うことがなければ、五平も六蔵も妻を持つこともなく、とっくに死んでいたであろう。
「明日をも知れぬような頼りない暮らしをしていたわしが、今では孫が風間党の棟梁になれるかどうかという心配をしている。そもそも慎吾には、まだ妻もいないというのに、な」
 六蔵がふーっと大きく息を吐く。
「昔、大森の兵から逃げ回っていた頃は、まさか、こんな安穏な暮らしができようとは思えなかった。朝っぱらから酒など飲んでいるが、あの頃は酒など一年に一度も飲むことができなかった。米を食べることもできなかった。稗(ひえ)や粟(あわ)がごちそうだった。それすら滅多に食えず、森に入って木の皮をむいて食べたり、木の根を掘り起こして食ったのだ。そのわしが今では......おかしな世の中だな」
「......」
 小太郎に話しているというのではなく、自分自身に語りかけているような気がしたので、小太郎は黙って口を閉ざしている。
「兄者が知れば、さぞ驚くであろうな。御屋形さまから由緒ある家門を引き継ぐように命じられ、小太郎が一家を立てる。いずれは伊豆千代丸さまの軍配者になる。まるで狐か狸にでも化かされているかのようだ......」
 わかった、と六蔵が小太郎の顔を真正面から見つめる。
「風間と風摩は別々の家だが、それでも兄弟の家であることに変わりはない。風間党の者たちには、そう伝えよう。慎吾にも言い聞かせておく」
 その言葉は明瞭で、もつれもない。
 その六蔵を見て、酔っているように見えたのは演技だったのではないか......ふと小太郎は、そう思った。


北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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