北条氏康第十七回

十六

 その夜、小太郎は氏綱の御前に召し出された。
 十兵衛と大道寺盛昌(もりまさ)も同席した。
 盛昌は宗瑞の従弟で、ずっと側近として仕えた弓太郎の嫡男である。
 弓太郎は宗瑞の死後、自身も出家し、発専(ほっせん)と号した。家督を盛昌に譲って隠居した。
 盛昌は有能で、今では氏綱の相談役として常にそば近くに控えている。
 もう一人、小太郎の見知らぬ男が下座に控えている。三十代半ばくらいの不機嫌そうな顔をした総髪の男である。頬骨が高く、顎が尖っており、神経質そうな目をしている。
「よく戻ったな。元気そうで何よりだ」
 氏綱が声をかける。
「は」
 小太郎が平伏する。
「まだ学び足りぬことがあったかもしれぬな。さぞ心残りであったろう。許せよ」
「お家の一大事とあれば、とても悠長に学問などしておられませぬ」
「それは嬉しい言葉だ。しばらく会わぬうちに立派に育ったと思っていたが、見た目がたくましくなっただけでなく、心根も立派になったようだな。帰って早々、伊豆千代丸の命も助けてもらった。礼を申すぞ」
 氏綱が軽く頭を下げる。
「とんでもない」
 小太郎が床に額をこすりつける。
「お家の一大事と申したが、小田原に戻る途中で何か耳にしたのか?」
「足利学校の庠主は、われらと上杉が戦を始めると見越しているようでございますぞ」
 横から十兵衛が口を挟み、北条氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉の間に戦が起こるという見通しを、東井(とうせい)が小太郎に語ったことを氏綱に説明した。
「さすがに足利学校の庠主というのは耳が早い。他にも何か申しておったか?」
「はい。わたしが足利学校に残って学問を続けることを望むのならば、自分が話を付けてもよい、とおっしゃいました」
「ほう、足利学校に残るように勧められたのか?」
「庠主さまからも、易を教えて下さった九華(きゅうか)先生からも誘われました。助教として学校に残り、学生たちを教える気はないか、と」
「それは驚いたな。まさか足利学校で教える側になれと誘われるとは......。よほど学問が進んだ証なのであろうな。そう思わぬか?」
 氏綱が盛昌に顔を向ける。
「行く末頼もしい限りですな」
 盛昌がうなずく。
「その誘いを断って当家に戻ってきてくれたとは嬉しいことだが、迷いはなかったのか?」
「ありませんでした。いつか小田原に戻るつもりで、日々、学問に励んでおりましたから」
「そうか、そうか」
 氏綱が満足そうにうなずく。
「では、軍配者として必要なことは、すべて足利学校で学び終えたと考えてよいのだな?」
「兵学にしろ、易にしろ、これで終わりということはありません。まだ本当の戦に出て軍配を振ったこともなく、これから学ばなければならないことは多いように思われます」
「伊豆千代丸も、あと何年かすれば元服だ。元服すれば、戦にも出なければなるまい。初陣には、傍らにおまえにいてもらわなければ困る。伊豆千代丸が元服するまでに、軍配者としての腕を磨いてもらいたい。上杉と戦を始めれば、戦が何年続くかわからぬ。戦が続いている最中に元服させることになるやもしれぬ。それ故、この戦の最初から、おまえには参加してもらいたいと考えた。どうだ、小太郎、わしと伊豆千代丸に力を貸してくれるか?」
「もったいないお言葉です。この命を懸けて、できる限りのことをする覚悟です」
「おまえには伊豆千代丸の軍配者になってもらうが、わしにも軍配者がおる。根来(ねごろ)金石斎(きんこくさい)という」
 氏綱が下座に控える男に顔を向ける。それが金石斎であった。
 金石斎は小太郎に体を向けると、畏(かしこ)まった姿勢のまま、
「金石斎でござる。どうか、お見知りおき下され」
 と頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします。小太郎と申します。足利学校では青渓と名乗っておりました」
「金石斎の指図に従って、当家の軍法やしきたりを学んでほしい。軍配者として必要な諸々の事柄について教えを請うがよい。足利学校ではなく、京の五山で学んだ身だから、いくらか違いがあるかもしれぬが、父上からわしに引き継がれたやり方を伊豆千代丸にも引き継いでもらわねばならぬから、たとえ足利学校で学んだことと違っていても、当家のやり方に従ってもらいたい。といっても、別に金石斎に弟子入りさせるわけではない。それを勘違いせぬようにな」
「はい」
「戦の見通しが立ったところで、おまえにも小田原に屋敷を用意させる。それまでの間、窮屈かもしれぬが、城で暮らしてくれ」
「え、わたしに屋敷ですか?」
「そのつもりでおる。ついては、おまえに承知してもらわなければならぬことがあってな」
「何でしょうか?」
「風間(かざま)の姓を捨ててもらいたいのだ」
「は?」
 小太郎がきょとんとした顔になる。氏綱の言葉の意味が理解できなかったのだ。
「五平が亡くなって、もう何年になるかな」
「かれこれ十年でございます」
「そうか。十年か......。早いものだな。五平は父上によく尽くしてくれた。五平が亡くなってからは、弟の六蔵が風間党の棟梁となり、仲間たちを従えて、わが家のために尽くしてくれている。その六蔵だが、今は小田原で暮らしている」
「え、叔父御が小田原にいるのでございますか?」
「父上が亡くなってから、多くの者たちが韮山から小田原に移り住むようになった。風間党も、そうだ。皆、韮山を引き払った。おまえにとっては韮山が生まれ故郷であろうが、六蔵たちにとっては、そうではない。戦で故郷を追われたのだ。その故郷がどこにあるか知っているか?」
「風間村のことでしょうか。確か、小田原の近くだとか......」
「ここから二里(約八キロ)ほど西に行けば、そこが風間村だ。五平や六蔵が生まれた土地だ。六蔵は、そこに屋敷を構えている。もっとも、戦が近いこともあって、ほとんど屋敷にはいない。せっかく生まれ故郷に戻ることができたのに、のんびり腰を落ち着けることもできず、いつも旅に出ている。わしは六蔵の働きに満足している。よく風間党を束ね、わしに尽くしてくれている」
 氏綱は、ぐっと膝を乗り出して、じっと小太郎を見つめる。
「本当ならば、おまえにも風間村に屋敷を与えるべきだろう。だが、わしは気が進まぬのだ。なぜだか、わかるか?」
「叔父御がわたしを憎んでいるからでしょうか」
「父上がおまえに目をかけるようになってから、六蔵や慎吾たちと軋轢が生じたことは、わしも耳にしている。命を狙われたこともあったそうだな」
「そのようなこともあったかもしれません」
「六蔵は、おまえに棟梁の地位を奪われると恐れているのであろう」
「わたしには、そんなつもりはありません」
「その言葉を信じよう。だが、六蔵は信じられぬのであろうな。たぶん、慎吾も」
「同じ一族同士で争うのは愚かで悲しいことです」
「小太郎に不埒なことをしてはならぬと叱れば、六蔵もおとなしくするであろうが、かえって、おまえたちの溝を深くすることになるのではないかと心配だ。それでは困る。上杉という巨大な敵と戦うには、皆が心をひとつにしなければならぬ。味方同士が脚を引っ張り合うようなことがあってはならぬのだ。わしは、おまえにも六蔵にも慎吾にも期待している。風間党の皆に働いてもらいたいのだ」
「御屋形さまのおっしゃることが正しいと思います」
「道理を説いても納得できぬ石頭というのはいるものだ。六蔵や慎吾のようにな。あの者たちは、おまえが風間小太郎である限り、おまえを疑い、おまえを憎むであろう」
「それで、わたしに風間姓を捨てろとおっしゃるのですね?」
「うむ」
「わかりました。それで一族の和を保つことができるのならば、わたしは風間小太郎であることをやめ、ただの小太郎になります」
「よう申した」
 氏綱が膝を叩く。
「だが、ただの小太郎では困る。伊豆千代丸の軍配者となるべき者が姓を持っていないのでは困るからな。伊勢氏も北条氏に改姓したばかりだ。おまえは北条氏が初めて抱える軍配者であり、父上の薫陶を受けた者だから、それにふさわしい姓を与えたいと考えた。盛昌」
「は」
 盛昌が懐から折り畳んだ和紙を取り出し、それを氏綱と小太郎の間に広げて置く。
 その紙には、
「風摩」
 と墨書されている。
「これは......。かぜま、と読むのでございましょうか、それとも、かざま、と......?」
「一文字違うだけで読み方が同じなのでは風間党と区別がつかぬではないか。ふうま、と読む」
「ふうま......?」
「聞き慣れぬ姓かもしれぬが、相模では由緒ある家門だ。北条に改姓するとき、得宗家(とくそうけ)に仕えた御家人たちのことも調べた。その中に、この風摩という家もあった。最後の執権である北条高時(たかとき)が新田義貞に滅ぼされたとき、風摩一族も高時に殉じた。それで家門が断絶し、長く忘れられることになった。風摩一族の如くに伊豆千代丸に仕え、いつまでも伊豆千代丸を支えてもらいたいという気持ちで、わしはこの姓をおまえのために選んだ」
 得宗というのは、源頼朝を支え、鎌倉幕府の礎を築いた北条義時(よしとき)の法号で、義時が亡くなってから北条氏の嫡流を得宗家と呼ぶようになった。風摩は北条氏に殉じて滅んだ忠義一徹な一族である。その家を小太郎に継がせようというのだから、氏綱が小太郎に寄せる期待の大きさがわかろうというものだ。当然ながら、氏綱の思いは小太郎にも伝わった。
「どうだ、受けてくれるか?」
「そのような立派な家名を、わたしのような者が受け継いでいいものかどうか......。正直、荷が重いような気がいたします」
「ならば、この家名に負けぬほどの男になればよい。そういう願いも込めて、わしは選んだ」
「小太郎、謹んでお受けすればよい。おまえが風摩の家を継げば、六蔵や慎吾も安堵するだろう。おまえが風間党の棟梁になることはなくなるからな。いずれ家臣を召し抱えれば、それは風摩党ということになる。風間党と風摩党が共に北条家のために尽くすことが御屋形さまのご厚情に報いる道でもある」
 十兵衛が言う。
「その通りだ。小太郎、承知してくれるな?」
「はい。風摩の名を汚さぬよう、精一杯、お家のために尽くす覚悟です」
 小太郎が平伏する。
「期待しておるぞ」
 氏綱がにこっと微笑む。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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