北条氏康第八回

七  意外だったが、伊豆千代丸の希望はすんなり受け入れられた。学問も剣術稽古も自分一人でやることになったのだ。勝千代と弁千代は、あっさり外された。今までと同じやり方に戻っただけのことだから別に嬉しくはないが、自分の希望が受け入れられたことに伊豆千代丸は満足した。  何よりも怖れていた氏綱の怒りを買うこともなかった。氏綱がどう思っているかはわからないが、少なくとも伊豆千代丸に直接的に怒りをぶつけるようなことはなかった。  が......。  またもや思いがけない事態が生じて、伊豆千代丸は慌てることになった。  宗真と二人だけで学問をし、それが終わると、伊豆千代丸は奈々のもとに飛んでいくのが常である。午後の剣術稽古が始まるまで、二人で遊ぶのが楽しみなのだ。 (ん?)  奈々の部屋から笑い声が聞こえる。それも一人や二人の笑い声ではない。  何事だろうと伊豆千代丸は足音を忍ばせ、そっと奈々の部屋を覗く。  思わず、あっ、と声を上げそうになる。  奈々を囲んで、勝千代、弁千代、お福、それに見知らぬ小さな女の子が双六(すごろく)をしているではないか。 「まあ、若君。学問は終わったのですか?」  伊豆千代丸に気が付いて、奈々がにっこり微笑みかける。 「若君、初めてお目にかかります。勝千代の妹、志乃と申します」  志乃が姿勢を正し、畳に指をついて挨拶する。すらすら言葉が出て来たのは、若君にお目にかかったら、こういう言い方できちんとご挨拶するのですよ、とお国に言われ、二人で何度も練習したからである。そうでなければ、わずか三歳の童女が咄嗟にこのような挨拶などできるものではない。 「う、うむ、わしは伊豆千代丸じゃ」 「志乃は奈々と共に手習いをすることになったのです」  お福が説明する。 「ふうん、そうなのか」  うなずきながら、伊豆千代丸は勝千代と弁千代に顔を向ける。志乃がいるのはわかったが、この二人はここで何をしているのだ、という怪訝な顔だ。 「勝千代と弁千代は、もう学問と剣術稽古を終えましたので、ここで一緒に遊んでいるのです。若君も仲間にお入りなさいませ。剣術稽古が始まるまで、まだ時間がありましょうから」  お福が席を譲り、そこにむっつり顔の伊豆千代丸が坐る。早速、お福を除く五人で双六を始めたが、伊豆千代丸は少しも楽しくなかった。奈々が楽しそうに笑い声を上げると、何だか無性に腹が立つ。  そんな日々が十日も続くと、もう伊豆千代丸は我慢できなくなってしまう。 「お福」 「何でございましょう?」 「わしは気に入らぬ」 「何がでございますか?」 「わしが学問や剣術稽古をしているときに、なぜ、あいつらは奈々と一緒に遊んでいるのだ。ずるいではないか」 「怠けているわけではありませんよ。ちゃんと学問もし、剣術稽古もし、それから遊んでいるのです。若君が勝千代や弁千代と一緒では嫌だとおっしゃるので、あの者たちは朝早くに学問と剣術稽古をしているのでございますよ」 「......」  伊豆千代丸がふくれっ面になる。自分が学問や剣術稽古をしているときに勝千代や弁千代が奈々と一緒に遊ぶのは気に入らないが、そもそも、そうなったのは自分のせいではないかとお福に指摘されると、確かにそれはその通りだと認めざるを得ないものの、それでも、やはり、気に入らないものは気に入らないのである。その割り切れない感情がふくれっ面になって表れる。  しかし、それをどう説明し、どういう解決方法があるのか伊豆千代丸にはわからない。  伊豆千代丸が黙り込んでいると、 「また一緒に学問や剣術稽古をなさいますか?」  さりげなくお福が口にする。 「なぜじゃ?」 「そうすれば、若君のいないときに勝千代や弁千代が奈々と遊ぶこともできなくなりましょうから」 「あいつらとか......」  伊豆千代丸が顔を顰(しか)める。  本音を言えば、どっちも気に入らない。できることなら、あの兄弟には、どこか遠くに消えてほしい。  だが、そこまで口にすれば、さすがに氏綱が黙っていないだろうと思う。  となると、どちらかを選ばなければならない。  どちらも愉快ではないが、不愉快の度合いが小さい方を選ぶしかない。 「よし、明日から、また一緒にやる」  伊豆千代丸がうなずく。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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