北条氏康第五十五回

二十二

 六月十日、二千の兵が小田原を出て、東海道を東にゆるゆると進んでいく。
 大道寺盛昌が先頭付近にいて、氏康は後ろの方にいる。氏康と馬首を並べて進んでいるのは小太郎で、そのすぐ後ろに綱成と盛信がいる。
「いかがですか、気持ちが昂(たか)ぶっておられませんか?」
「うん、いつもと変わらぬ」
「ゆうべは眠れましたか?」
「眠れたさ」
「......」
 小太郎が口許を緩める。
「何だ?」
「申し訳ございません。いくらかお顔色が優れぬように見えたものですから」
「ふんっ、いろいろ考え事をしたせいで、あまり寝付きはよくなかった。眠りも浅かったかな」
「それが当たり前です。戦の前には誰でも気持ちが昂ぶってしまうものです。ましてや初陣ともなれば尚更です」
「わたしは、まったく眠れませんでした」
 後ろから綱成が言う。
「力が有り余っている気がしたので、庭に出て素振りをし、井戸水を頭から浴びました」
「バカだな。そんなことをしたら、ますます寝られなくなるではないか」
 肩越しに振り返って、氏康が笑いかける。
「なあに、一日や二日くらい寝なくても平気です」
 綱成が強がる。
「おまえは、どうだった、眠れたか?」
 氏康が盛信に訊く。
「目が冴えて眠れないので、書物を読みました。それで気持ちが落ち着いて、少しだけ眠ることができました」
「みんな似たようなものだな」
「そういうものです。あまり興奮しすぎるのもよくありませんが、あまり落ち着き払っているのもよくありません。何度も戦に出るうちに、少しずつ慣れるのです」
「小太郎も、そうだったか?」
「わたしなど、まだまだです。正直に言いますが、実は、わたしもゆうべはあまり眠れませんでした」
「青渓先生もですか?」
 綱成が驚いたように言う。
「だから、あまり偉そうなことも言えないのさ」
「それを聞いて、何だか安心しました」
 盛信がにこりと笑う。

 夕方、北条軍は当麻(たいま)に入った。ここが今日の宿営地で、小沢城には明日入る予定である。
 当麻は座間(ざま)の北にあり、当時、北条氏が各地に設置していた伝馬宿(てんましゅく)のひとつである。たとえ一日の宿営とはいえ、二千もの軍勢が一夜を過ごすのだから、食事や薪を用意し、宿泊場所を確保するだけでも大変だが、事前に準備がなされていたので、大きな混乱が起こることもなかった。
 小沢城からは深大寺城にいる扇谷上杉軍について報告してくる。
 扇谷上杉軍は城を出て玉川を渡り、玉川と小沢城の間にある小沢原(おざわがはら)に兵を配置し始めたという。
 その報告をもとに、氏康、小太郎、大道寺盛昌の三人が絵図面を囲んで板敷きに坐り込み、善後策を協議する。
「上杉は決戦を挑んでくるつもりだろうか?」
 氏康が訊く。
「この配置を見ると、城攻めをするのではなく、われらが到着するのを待って合戦を始める......そんな風に思われます」
 小太郎が答える。
「父上が病で寝込んでいることも、わしらが二千の兵しか連れて来なかったことも向こうは知っているのだろうな?」
「知っているでしょう」
 小太郎がうなずく。
「どうする、盛昌?」
 氏康が盛昌に顔を向ける。
「予定通り、小沢城に入るのがよかろうと存じます」
「小太郎は?」
「わたしも、それでよいか、と」
「ならば、そうしよう」
 氏康がうなずく。
「わしらが城に入り、誘いに乗らなければ、上杉はどうするだろう? 諦めて引き揚げるかな」
「われらより多いとはいえ、敵の数も三千そこそこ。力攻めしたところで、小沢城を落とすことはできますまい。いずれ小田原から新手の兵がやって来ることは敵も承知しているでしょうから、恐らく無理攻めはしないだろうと思います」
 小太郎が言う。
「そうか」
「せっかくの初陣が籠城(ろうじょう)というのでは、若殿も無念かと存じますが」
 盛昌が気遣うように言う。
「そんなことはない。小沢城を守れば、父上も喜んで下さるに違いない。わしは、それで満足だ」
「立派な心懸けでございます」
 盛昌と小太郎が頭(こうべ)を垂れる。

二十三

 翌十一日の早朝、北条軍は当麻を出発し、午後に小沢城に入った。
 城代の石巻家貞が城門で氏康を出迎えた。
「若殿、よく来て下さいました」
 目を潤ませて、氏康の手を取る。喜怒哀楽の器が人並み以上に大きいのだ。わずか十六歳の氏康が、名代とは言え、二千の軍勢の総大将として援軍に駆けつけてくれたことが嬉しくてたまらないらしい。
 それだけでなく、氏康の到着がもう少し遅れていたら、小沢原に布陣している扇谷上杉軍が前進を始め、小沢城を包囲していたかもしれない、という差し迫った事情もあった。包囲されてしまえば、氏康は小沢城に入ることができず、否応なしに扇谷上杉軍との決戦を選択せざるを得なかったであろう。
 だが、無事に氏康は二千の兵と共に小沢城に入った。十分すぎるほどの食糧も運んできたので、ひと月くらいであれば籠城できる。時間を稼ぐことができれば、いずれ氏綱が大軍を率いて小田原から駆けつけてくれるのだ。
 早速、軍議が行われたが、取り立てて話し合うこともない。城の守りを固めて、敵の挑発に乗らなければいいだけのことである。
 半刻(一時間)も経たぬうちに話し合うこともなくなったので、軍議を終わって、氏康の到着を歓迎する宴に移ろうとしたとき、河越方面に放っている忍びから知らせが届いた。
 五千の山内上杉軍が南下しているというのである。
 目的地は深大寺城だという。
 となれば、小沢原に布陣している扇谷上杉軍と合流して小沢城を攻めるつもりに違いなかった。
「何ということだ。山内勢が加われば、敵は八千ではないか......」
 大道寺盛昌が呻(うめ)くように言う。
 八千もの大軍に包囲されれば、いかに守りを固めて籠城しようと苦戦は必至である。
 氏綱がやって来るまで持ちこたえることができたとしても、氏綱が率いてくるのは、せいぜい五千ほどで、それでは氏康の軍勢を加えても、両上杉軍より少ない。最悪の場合、小沢城を落とされた上に氏綱の軍勢が敗れるという可能性すらあり得る。
 そうなれば、北条氏は滅亡である。
「まだ本当かどうかわからぬ。たとえ本当だとしても、もっと少ないかもしれぬではないか」
 石巻家貞が自分に言い聞かせるように言う。
 だが、続々と戻ってくる忍びたちの話を聞けば、山内上杉軍の南下は事実であり、五千という数も間違いではないとわかる。
 しかも、五千より多いという者もいる。五千、六千、七千......中には、一万という者までいる。ひとつだけはっきりしているのは、たとえ五千でも北条軍は苦戦必至であり、もし一万だとしたら、とても持ちこたえられないだろうということだ。
 山内上杉軍の行軍速度は速く、明日の昼には深大寺城に着きそうだという。
 皆が黙り込んでしまったとき、
「ならば、こちらから攻めるしかないのではないか?」
 氏康が口を開く。
「攻めるといっても......。この城を守り抜けというのが御屋形さまのお指図でございますれば......」
 盛昌が言う。
「父上も、敵が三千だと思っていたから、籠城すれば何とかなると考えたのであろう。だが、八千もの敵に囲まれたら、長くは持たぬぞ。しかも、山内上杉は、もっと多いかもしれぬという。山内上杉が到着してからでは何もできぬ。今なら扇谷上杉は三千、こちらは、城にいる者たちを含めて二千三百......それほどの差ではない。あれこれ迷っている時間はないぞ。山内上杉は、明日の昼には、ここに現れるのだ。とすれば、わしらにできるのは小沢原に布陣している扇谷上杉を夜襲することだけではないか。夜が明けるのを待って戦を始めたのでは、わしらが疲れ切った頃に山内上杉が姿を見せるであろうからな。それ故、今この場で決めなければならぬのは、今夜、夜襲するか、それとも、何もせずに籠城するか、どちらを選ぶのかということだ」
 氏康がぐるりと皆の顔を見回す。
「......」
 重苦しい沈黙が漂う。
 氏康の言うことは正論である。
 しかし、敵を攻めるというのは氏綱から命じられたこととは違っている。
 確かに山内上杉の大軍が到着すれば苦戦は免れないだろうが、それでもしばらくは持ちこたえることはできるはずである。
 だが、万が一、夜襲に失敗すれば、小沢城を奪われた上、みじめに敗走することになる。
 氏康から指揮を任せると言われている大道寺盛昌ですら難しい顔で唸り声を発している。夜襲を成功させる自信がないのであろう。
「差し出がましいようですが......」
 小太郎が口を開く。重臣たちが黙り込んでいるのに若輩者の自分が真っ先に発言するのは僭越(せんえつ)だと承知しているのだ。
「構わぬ、申せ」
 盛昌がうなずく。
「若殿、失礼なことを申し上げてもよろしいですか?」
 小太郎が氏康に顔を向ける。
「うむ」
「では、申し上げます。敵が三千のままであれば、御屋形さまに命じられたように籠城すべきであると存じます。しかしながら、それに五千、もしくは六千、七千の山内勢が加わるとなると話は違ってきます。それほどの大軍に包囲されれば、ひと月どころか、恐らく、七日も持たぬでしょう。とすれば、若殿がおっしゃったように先手を取り、こちらから攻めるのが良策であると思います。わたしだけでなく、皆様方にもよくおわかりのはずです。にもかかわらず、誰も賛成しようとしないのは、その策が若殿の口から出たからでございましょう。ご存じのように、若殿にとっては、これが初陣、すなわち、これまで戦の経験がありませぬ。その若殿の策では心許ない、本当に大丈夫か、と心配なのでありましょう」
「これ、口が過ぎようぞ」
 石巻家貞が顔を顰(しか)める。
「よいのだ。遠慮はいらぬ」
 氏康が言う。
 しかし、氏康の顔は青ざめている。小太郎の言葉が鋭く胸に突き刺さるのであろう。
「亡き早雲庵さまは、心に迷いが生じたとき、どんなときでも座禅を組み、心の中にあるもやもやした雲を払い、心を真っ白にしてから考え直すということをなさいました。信じがたいことですが、戦場で座禅を組んだこともございます」
「おう、そうであった。早雲庵さまは、よく座禅を組んでおられた。さすがに戦場で座禅を組んだときには、こっちが肝を冷やした。何しろ、敵の顔が近くに見えるくらいに攻め込まれているのに、悠々と地面に腰を下ろして結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢を取るのだからな。びっくりしたぞ」
 盛昌が言うと、
「そうであった、そうであった」
 家貞が愉快そうに膝を叩く。
「いかがでしょう、早雲庵さまに倣(なら)い、皆で座禅を組み、その後で軍議の続きをいたしませぬか?」
「それは面白い。皆、心に迷いが満ち満ちて、どうしていいかわからぬ。早雲庵さまのように座禅を組めば、よい知恵が湧くかもしれぬわ」
「よし、やってみよう」
 氏康も賛成する。
 それから、皆で座禅を組んだ。広間が沈黙に包まれ、皆の呼吸音しか聞こえない。
 四半刻(三十分)ほどして、小太郎がふーっと大きく息を吐き出し、
「よろしいでしょうか?」
 と言うと、皆も一斉に力を抜く。
「いかがでございました」
 小太郎が盛昌に訊く。
「不思議なことだが......迷いが消えた。若殿の策が正しいと思う」
「わしもだ。この場に早雲庵さまや御屋形さまがおられたら、きっと若殿と同じことをおっしゃるのではないかという気がする」
 家貞も同調する。
 他の者たちも異口同音に夜襲に賛成する。
「では、これで決まりですな。われらの策は夜襲と決まりました」
 小太郎が氏康に顔を向ける。
「うむ」
 氏康は緊張した表情で、うむ、とうなずく。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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