北条氏康第四十七回

 冬之助は予定通り、待ち伏せ場所に辿(たど)り着くことができた。途中、北条軍の偵察兵に何度か遭遇したが、幸い、うまく斬り伏せることができた。
(こちらの動きは知られていない。罠にも気付かれていない)
 冬之助がほくそ笑む。北条軍が危険を察知しているのであれば、行軍に何らかの変化があるはずだが、特に変化はなく、淡々と行軍を続けている。
(御屋形さまは、ご無事だろうか......)
 それだけが心配である。
 白子原では、すでに戦いが始まっている。
 北条軍の先鋒は三千、中軍は五千、合わせて八千の軍勢が、わずか三千の扇谷上杉軍に襲いかかっているのだ。双方合わせて一万を超える兵たちが雄叫びをあげながら、白子原を走り回っている。その大音声が時折、遠くから聞こえてくるような気がする。本当に聞こえているのかどうかわからない。空耳かもしれない。
 そう信じたいだけかもしれない。
 なぜなら、戦いが続いているからこそ、大音声も聞こえるのだ。北条軍の攻撃を支えきれずに扇谷上杉軍が潰走(かいそう)すれば、もはや白子原からは何も聞こえないであろう。扇谷上杉軍が持ちこたえている間は大音声が聞こえてくるはずなのだ。
 だから、冬之助は空耳などではなく、本当に大音声が聞こえているのだと信じたいのである。
(考えてみれば、恐ろしい話だな。おれがしくじれば、長い歴史のある扇谷上杉氏が滅んでしまうのだから......)
 ここで冬之助が死に、氏綱の率いる七千が無傷で白子原に着けば、扇谷上杉軍は壊滅せざるを得ない。今日という日が、長い歴史を誇る名家の終焉(しゅうえん)の日となり、白子原が扇谷上杉軍の墓場となるのだ。
「......」
 冬之助がゆっくり周囲を見回す。
 三百の兵たちが口を閉ざし、じっと身を固めている。馬のいななきが北条軍に聞こえるのを怖れ、かなり離れた場所に馬は置いてきた。だから、今は風の音と、兵たちの呼吸音しか聞こえない。言葉を発する者がいないのは、事前に冬之助がそう命じたからだが、たとえ、そうでなくても、この場でおしゃべりできるほど肝の据わった者はいないであろう。誰もが緊張で顔を引(ひ)き攣(つ)らせ、血の気の引いたような青い顔をしている。
 七千という途方もない大軍に、わずか三百人で斬り込もうというのだから、恐ろしくないはずがない。布陣している敵に突撃するのではない、縦に長く伸びきって行軍している敵に不意打ちを食らわせるだけだ、だから、実際に相手にするのは、せいぜい、数百人に過ぎない......そう何度も冬之助は説明した。
 兵たちも頭では理解しているであろう。
 しかし、現実に北条軍を眼前に見ると、やはり、恐ろしさで震えるのは仕方のないことであった。
「狙うのは総大将の首だけだぞ。他の者はどうでもいい」
 氏綱の命を奪うことだけが、この作戦の目的である。どんなやり方をしてもいいから、とにかく氏綱に迫り、一太刀でも二太刀でも浴びせるのだ、そして、止(とど)めを刺せ......それが冬之助の簡潔な指示だ。
 やり直しは利かない。一度だけの機会だ。
 だから、冬之助も冷静に命令を下さなければならない。氏綱が最も接近したときに、素早く突撃命令を出すのだ。
 眼下を北条軍がゆるゆると進んでいる。
 しかし、まだ氏綱は来ない。
(慌てるな。落ち着くのだ。おまえが落ち着かなくて、どうする)
 冬之助は目を瞑(つむ)って、大きく深呼吸する。兵だけでなく、冬之助自身、今までに経験したことがないほど緊張しており、真っ青な顔をしている。
「おおっ」
 という低いどよめきが、冬之助の周りにいる兵たちの間に起こる。
 後軍の先頭を進む五百人ほどが通り過ぎたとき、周囲に小姓たちを従え、立派な馬に乗った武将がやって来た。その後ろには旗を持った兵たちが続いている。氏綱である。
「......」
 口を閉ざしたまま、冬之助は兵たちに合図を送る。
 突撃の用意をしろ、というのだ。
 刀の柄(つか)に手をかける者、弓を撫でる者、両手で自分の顔を叩く者......反応は、人それぞれである。
(今だ)
 そう判断すると、冬之助は立ち上がり、刀を抜いて振り上げ、
「かかれ、かかれ!」
 と叫ぶ。
 兵たちも一斉に立ち上がり、うおーっと叫びながら、北条軍の隊列を目指して走り出す。
「敵だ、敵だ!」
 冬之助たちに気付いた北条兵が大声を張り上げる。
 しかし、扇谷上杉軍の放った矢に射倒されてしまう。たちまち大混乱が起こる。

十一

(くそっ、あんなに多くの敵、どこに隠れていた?)
 氏綱のもとに向かって走りながら、小太郎は目が眩(くら)む思いがする。
 たとえ伏兵がいたとしても、わずかの兵では何もできないだろう、と慎吾は笑ったが、敵はわずかの兵ではない。どう見ても百人、いや、二百人はいる。もっと多いかもしれない。その敵兵が縦に長く伸びきった北条軍の脇腹に一丸となって突撃している。敵の狙いは、はっきりしている。氏綱の命だ。
(蕨城を囲んでいた三千の敵が、そのまま白子原に布陣したのだと思い込んでいた。そうではなかった。そこから二百か三百の兵を抜き、大きく迂回させて、ここに隠れ潜んでいたのだ)
 そう小太郎は見抜く。
 そして、もうひとつ、
(これは養玉さんの策に違いない)
 と直感的に悟る。
 これほど大胆な策を捻り出して実行できる軍配者など滅多にいるものではない。
 何しろ、北条軍の目を欺(あざむ)くために、扇谷上杉氏の当主・朝興を餌にしたのだ。北条軍の先鋒と中軍はまんまと餌を飲み込んで白子原に進出した。そうなれば、氏綱の後軍も続くしかない。
 自分に同じことができるか、と小太郎は己に問う。敵軍を罠にはめるために、氏綱を餌にして敵軍を誘(おび)き寄せることができるだろうか、一歩間違えば、氏綱は死ぬのだ。
(無理だ。おれにはできない)
 いかに自分の策に自信があったとしても、その策を成功させるために主の命を危険にさらすことなど、小太郎には、とてもできそうにない。
 小太郎にできないことを冬之助はやっている。そこに底知れぬ凄味を感じるし、軍配者としての力の差を思い知らされる気がする。
 だが、今は感心している場合ではない。
 敵兵が氏綱の命を狙って群がっている。
 もちろん、氏綱の前後を進んでいた北条兵も異変に気付き、何とか氏綱を守ろうとするが、道が狭くて身動きが取れない。道を外れて沼地に入れば、今度はろくに歩くこともできない。道を戻ることもできず、沼地にも入れないとすれば、森に入るしかないが、そこには鋭い棘(とげ)を持つ茨(いばら)の茂みが密集していて、そう簡単に前に進むことができないし身動きも不自由だ。
 そうなると、三百の敵兵に立ち向かうのは、氏綱の周囲にいる、わずか三十人ほどの北条兵だけということになる。
 氏綱の身に危険が迫っているのを目(ま)の当たりにしながら、小太郎自身、道を塞(ふさ)ぐ北条兵に遮(さえぎ)られて前に進むことができない。
(御屋形さま!)
 小太郎の背筋を冷や汗が流れ落ちる。このままでは氏綱が討たれてしまう、という恐ろしい予感がしたのである。
(逃がさねば)
 その瞬間、小太郎の脳裏に名案が浮かんだ。
「皆の者よ、沼地に入れ。御屋形さまをお通しするのだ! 道を空けて、御屋形さまの馬を通らせるのだ。前に伝えろ、そして、さっさと沼地に入れ」
 小太郎が叫び続けると、その意味を理解した者たちが、
「御屋形さまの馬をお通しするために道を空けるのだ。わしらは沼地に入るのだ」
 と前方に伝える。
 北条兵が沼地や森に入って道を空ける。
 小太郎の前に道が開けた。そこを走りながら、
「御屋形さま、こちらにお逃げ下さい!」
 と叫び続ける。
 周りにいる者たちも、小太郎と同じように、
「御屋形さま、こちらへ、こちらへ!」
 と絶叫する。
 その声が聞こえたのか、氏綱が小太郎の方に顔を向けて大きくうなずく。
 氏綱自身、刀を手にして敵兵と戦っているところだったが、敵の狙いが自分の首を取ることにあると察知しているから、この場から逃れることに迷いはない。臆病なのではない。自分が死ねば、この戦いに敗れるとわかっているからだ。
 馬首を転回させると、馬の尻に鞭(むち)を入れる。
 敵兵が追いすがる。
 そこに慎吾の率いる一団が現れ、敵兵と氏綱の間に割って入る。
(よし、助かったぞ)
 小太郎がほっと安堵の吐息を洩らしたとき、敵兵の放った矢が氏綱の背に当たった。続けて放たれた矢が肩や腰にも命中し、氏綱が馬から落ちる。
「ああっ......」
 小太郎は目の前で起こったことが信じられず、膝が震えて立っていることができない。地面に膝をつき、落馬して地面に横たわる氏綱を瞬(またた)きもせずに凝視する。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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