北条氏康第四十四回

 八月二十二日、まだ夜が明けぬ頃、氏綱(うじつな)の率いる一万五千の北条軍が江戸城を出発して北上を始めた。向かうのは蕨城(わらびじょう)である。蕨城は三千の扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)軍に包囲されて苦戦しているのだ。
 先鋒が大道寺盛昌(だいどうじもりまさ)の率いる三千、中軍が松田顕秀(まつだあきひで)の率いる五千、後軍が氏綱の率いる七千で、ここに江戸城代の遠山直景(とおやまなおかげ)を始め、金石斎(きんこくさい)、小太郎(こたろう)がいる。十兵衛(じゅうべえ)の率いる伊奈(いな)衆は先鋒に組み込まれている。
 暗い道を進んでいるうちに夜が明けた。朝日を浴びながら、北条軍が粛々と歩みを続ける。
 蕨城周辺には多数の忍びを放っており、扇谷上杉軍に何か動きがあれば、すぐに氏綱のもとに知らせが届く手筈になっている。
 北条軍の接近を知れば、朝興(ともおき)は蕨城の囲みを解き、あたふたと河越(かわごえ)城に逃げ込むに違いない。それを確認した上で、毛呂(もろ)城を攻め、次いで松山(まつやま)城を攻める。もし河越城から朝興が救援に出てくれば、そこで野外決戦に持ち込む。
 朝興が出てこなければ、ふたつの城を落とした後に河越城を包囲する。敵が音を上げて降伏するまで包囲を解くつもりはない。
 かつて氏綱の父・宗瑞(そうずい)は三浦氏を新井(あらい)城に長期間包囲して滅ぼした。その包囲戦には氏綱も加わり、最前線で新井城に向き合った経験がある。その経験を生かすことで、たとえ時間はかかろうと、最後には河越城を落とすことができるという自信がある。
 蕨城を目指して行軍してはいるものの、扇谷上杉軍と戦うことはないという見通しを持っており、いかに短時間に、できるだけ兵を失うことなく毛呂城を落とすか、ということばかり氏綱は考えている。
 道々、金石斎や小太郎をそばに呼んで話をしたのも、毛呂城攻めに関して意見を聞くためだ。
 そこに知らせが届いた。
 扇谷上杉軍に動きがあるという。
「さもあろう」
 氏綱が大きくうなずく。
 が......。
 その知らせは、氏綱の予想とはまるで違っていた。
 扇谷上杉軍は河越城に向かうのではなく、蕨城から南下しているという。その動きは、あたかも北上する北条軍を迎え撃とうとするかのようだ。
「あり得ぬ」
 氏綱は全軍に小休止を命じた。重臣たちを呼び集めて作戦の再確認をしようとした。
 朝興が南下することなど夢にも考えていなかった。
 今回の作戦の前提は、朝興が蕨城の囲みを解いて河越城に逃げ帰ることなのである。朝興が出てくるとすれば、氏綱が毛呂城や松山城を攻めているときであろうと予想していたし、それでも出てこないかもしれないとも考えていた。
 この段階で重臣たちを呼び集めるのは、もはや不可能であった。氏綱がいるのは北条軍の最後尾だ。そこから伝令を放っても、先鋒にいる大道寺盛昌や中軍の松田顕秀に命令が伝わるのには時間がかかる。下手をすると、伝令が着く前に、先鋒は敵と遭遇するかもしれない。
 やむを得ず、後軍にいる遠山直景、金石斎、小太郎を呼んだ。扇谷上杉軍の不可解な動きを伝え、彼らの見通しを聞くことにした。
「どう思う?」
 と、氏綱が問うと、
「捨て鉢になっているのではありますまいか?」
 遠山直景が小首を傾げる。常識的に考えれば、わずか三千の扇谷上杉軍が一万五千の北条軍に真正面から戦いを挑むなどあり得ないことである。大軍に飲み込まれて全滅するだけではないか。
「見栄でございましょう」
 金石斎は鼻で笑う。
「見栄とは?」
「尻尾を巻いて河越城に逃げ戻ったのでは体裁が悪すぎるので、北条に立ち向かおうとしたものの、数が違いすぎるとわかったのでやむを得ず兵を退いた......世間に向かって、そんな言い訳をしたいのではないでしょうか」
「なるほど、体裁を取り繕(つくろ)うための見せかけの南下ということか」
 氏綱はうなずくと、小太郎に顔を向け、どう思うか、と問う。
「これだけ兵の数に違いがあるのですから、何も心配することなどないとは思うのですが......」
 小太郎の表情は曇っている。
「何か気になるのか?」
「金石斎先生のおっしゃるように、ただ見栄を張っているだけであればいいのですが、そうでないとすれば......」
「本気で戦うつもりだというのか?」
「扇谷上杉の御屋形(おやかた)さまは、さして戦がうまくありませんが、そばに仕える者たちは決して戦下手ではありません。捨て鉢になって勝てぬ戦をするとも思えぬのです。この戦いで負ければ、扇谷上杉は滅びてしまうのですから」
「しかし、まともにぶつかってきて向こうに勝ち目があるか? 向こうは、わずか三千なのだぞ。どんな策を立てられるというのだ」
 遠山直景が怪訝な顔になる。
「わたしにもわからないのですが......」
 小太郎が途方に暮れたような顔になる。
 そのとき、先鋒の大道寺盛昌から遣わされた伝令がやって来た。
 偵察に放っていた少数の部隊が扇谷上杉軍の斥候(せっこう)と小競(こぜ)り合(あ)いになり、互いに応援が駆けつけて、なし崩しに合戦が始まったというのである。
 いよいよ戦いの火蓋(ひぶた)が切られたのだ。
「どのあたりで戦になった?」
 氏綱が訊く。
「は。白子原(しらこはら)付近でございまする」
 伝令が頭(こうべ)を垂れて答える。
「白子原......」
 氏綱が首を捻る。聞いたことのない地名である。
「蕨城から南に三里ほどのところにある開けた平地でございます」
 小太郎が素早く答える。河越城周辺の土地については、できるだけ詳しく調べてある。いずれ、そのあたりで大がかりな戦いが起こるであろうと予想していたからだ。
 もちろん、自分一人の力で調べたわけではない。風間慎吾(かざましんご)の力を借りた。風間党の忍びは関東諸国を旅して歩いているから、その土地に関する様々な情報を蓄えているのだ。
「平地か。大軍を動かすには都合がいいな。戦いが始まったとなれば、あれこれ考えている暇はない。少しでも早く白子原に着き、扇谷上杉の息の根を止めるのだ」
 氏綱が言うと、周りにいる者たちが力強くうなずく。戦いを前にして血が昂(たか)ぶっているのであろう。

 氏綱が江戸城を出たという知らせは、蕨城を囲んでいる朝興の元に直(ただ)ちに知らされた。北条氏が敵地に多数の忍びを放っているように、扇谷上杉氏も江戸城周辺に忍びを送り込んでいる。去年の一月に氏綱に奪われるまで、江戸城は扇谷上杉氏の重要拠点だったから、その周辺には今でも扇谷上杉氏に心を寄せる者が少なからずいる。情報を集めるのに苦労はない。氏綱が後軍にいて七千の兵を率いていることもわかっている。
 天幕を巡らせた本陣の中には朝興、曾我兵庫(そがひょうご)、冬之助(ふゆのすけ)の三人がいる。冬之助の父・祐重(すけしげ)は河越城の留守役を任されたので、ここにはいない。
 床几(しょうぎ)に腰を下ろした朝興が上座に、その左右に曾我兵庫と冬之助が控えている。
「いよいよだのう」
 朝興が溜息をつきながら言う。
「はい、いよいよでございます」
 曾我兵庫がうなずく。
「うまくいくかな?」
「それは......」
 曾我兵庫が冬之助に顔を向ける。
「冬之助次第でございましょう」
「そうだのう」
「氏綱と刺し違える覚悟でございます。しくじれば、この世にはおりませぬ」
 冬之助が落ち着いた口調で言う。目前に決戦を控えているという心の昂ぶりは感じられない。
「うむ。わしも同じよ。まともに戦っても勝てぬ。河越城に籠もっても勝てぬ。いくらか命を長らえることはできようが、いずれは氏綱に膝を屈することになる。そのような恥をさらすくらいなら、ここで勝負をかける」
「力強いお言葉でございます。しつこいようですが......」
「わかっておる。敵が攻めかかってきても、こちらからは動かず、貝のようにじっとしていればよいのであろう。そうやって時間を稼ぐのだな?」
「はい。つきましては、わたしは一千の兵をお借りすると申しましたが、五百に減らすことにいたします」
「なぜだ? わしの身を案じているのなら......」
「そうではないのです」
 冬之助が首を振る。
「よくよく考えれば、この策は、兵の数はどうでもよく、大切なのは兵が動く速さなのです。わたしと共に兵たちには素早く動いてもらわねばなりませんが、そのためには兵の数は少ない方がいいのです。その代わり......というのも何ですが、できるだけ多くの馬を貸していただきたいのです」
「許す。好きなだけ持っていくがよい」
 朝興がうなずく。
「十分に説明を聞き、納得はしているものの、何とも大胆な策よなあ。白子原で決戦と聞いたときには耳を疑ったぞ」
「わたしも同じでございます。見晴らしのよい広い平地は大軍にこそ有利であり、数が劣るわが軍が戦うには最も不利な場所......なぜ、そのような場所で、と」
 曾我兵庫が言う。
「白子原は北条にとって最も戦いやすい場所です。だからこそ、われらが白子原に進出したと知れば、何の疑いもなく大喜びで兵を進めるでしょう。それが狙いなのです」
 冬之助が言う。
「そうであってほしいものだ。さて、そろそろ行くか。城の囲みを解き、わしと兵庫は白子原に向かう。白子原に陣を敷いたならば、偵察部隊を出し、北条の偵察部隊を挑発すればよいのだな?」
「餌(えさ)に食いつかせて下さいませ。北条は喜んで食いつくでしょう。先鋒が白子原に入れば、中軍と後軍も急いで後に続こうとするはず。そのときこそ、わたしの出番です」
「うむ」
 朝興は大きくうなずくと、小姓を呼んで酒を用意させる。
「これが今生(こんじょう)の別れになるやもしれぬ故な」
 朝興が徳利を手にし、二人の盃に酒を注ぐ。
「......」
 曾我兵庫と冬之助は畏(かしこ)まって酒を受ける。
 自分の盃に酒を注ぐと、
「武運を祈ろうぞ」
「は」
 三人は互いの顔を見てうなずき合うと、盃の酒を一気に飲み干す。
「では、わたしは、これにて」
 冬之助が腰を上げる。
「頼むぞ」
「は」
 深々と一礼し、冬之助が天幕の外に出ていく。
 二人きりになると、
「わしらも行くか」
「はい」
「兵庫、今まで世話になった。礼を申すぞ」
「何をおっしゃるのですか」
「昼くらいには決着が付くだろう。乱戦になれば、礼を言う暇もなく、首を奪われるかもしれぬ。だから、今のうちに礼を言っておきたいのだ」
「そのようなことをおっしゃいますな。うまくいくと信じるのです。それが大切です」
「冬之助を信じたい。冬之助の双肩に扇谷上杉の命運がかかっているのだからな」
 頼むぞ、冬之助......そう朝興はつぶやく。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー