北条氏康第四十一回

十二

 二月になると、氏綱は大軍を率いて小田原から江戸城に向かった。江戸城には渋江(しぶえ)三郎、周徳(しゅうとく)ら、岩付城を追われた渋江一族が参集し、氏綱に忠誠を誓った。
 二月四日、氏綱は岩付城に向けて進撃を開始した。
 河越城の朝興(ともおき)は動かなかった。
 いや、動きようがなかった、というのが正確であろう。
 朝興が頼りとする武田信虎(のぶとら)は、この時期、甲斐が深い雪に覆われているので他国に遠征することは無理だったし、山内(やまのうち)上杉氏の憲房(のりふさ)は、いよいよ病状が思わしくなくなり、援軍を出すどころではない。
 朝興が独力で岩付城を救援しようとすれば、氏綱に撃破され、岩付城だけでなく河越城まで奪われる怖れがある。それ故、岩付城を見殺しにして、じっと河越城に閉じ籠もるしかないのだ。
 もちろん、氏綱は、それを見越した上で出陣してきたのである。
 六日の午前十時頃に攻撃を開始し、午後四時には城が落ちた。
 難攻不落と呼ばれるほどの城にしては、あまりに呆気ない落城だったが、それには事情がある。
 城に籠もる者たちが、城主の太田資頼(すけより)を中心に結束し、徹底抗戦の構えを見せれば、氏綱も攻めあぐねたはずである。
 大砲のような破壊力のある攻城兵器のない時代、堅固な城を力攻めするのは至難の業なのである。大砲どころか、まだ鉄砲すら使われていない。弓矢と槍だけでは城を落とすことはできない。
 それ故、城を落とすには調略がモノを言う。
 城主を利で釣って寝返らせるのが最もわかりやすいが、それがダメなら、城主の周りにいる者たちを寝返らせる。
 この岩付城攻めが、そうだった。
 太田資頼は一年前に氏綱に寝返った。
 ところが、去年の六月に扇谷上杉軍と武田軍に攻められるとあっさり降伏して扇谷上杉氏に帰参した。
 北条の大軍に包囲されて、
(これは勝てぬ)
 と諦めたものの、降伏する気持ちはなかった。
 氏綱が自分を許すとは思えなかったからだ。北条方には渋江三郎もいることだし、たとえ降伏しても渋江三郎が岩付城の主となり、自分は斬られるに違いないと思った。
 だから、太田資頼は最後まで戦い続ける覚悟だった。そういう資頼の考えは氏綱もわかっていたし、ころころ主を替えるような者を信じることもできないから、資頼には何の調略もしなかった。その周囲にいる者たちに働きかけたのである。
 すなわち、太田資頼の首を手土産にして降伏すれば、他の者たちの命を助け、領地も安堵すると約束したのだ。よそ者の氏綱の言葉だけであれば、そう簡単に信じてもらえなかったかもしれないが、氏綱だけでなく、渋江三郎も約束した。
 岩付太田一族にしろ、渋江一族にしろ、昔から岩付地方に根を張ってきた者たちで気心は知れている。渋江三郎が約束するなら、その言葉を信じようという気持ちになった。
 朝興が救援に駆けつけるというのであれば話は違っただろうが、その気配はない。岩付城は孤立無援である。籠城すれば、そう簡単には落ちないにしろ、結局は時間の問題である。北条軍に包囲されているうちに水や食糧がなくなれば降伏することになるのだ。それくらいならば、できるだけ有利な条件を引き出して氏綱に寝返る方がいい、と考えるのは当然であった。資頼の首ひとつを差し出せば、自分たちの立場は安泰なのである。
 そういう空気を資頼が感じないはずがない。
(誰も信じられぬ)
 実際、北条軍が攻撃を始めても、城方はさして積極的に戦おうとはしなかった。
 いくら資頼が叱咤激励しても、兵たちの反応が鈍いのである。やる気がないのは明らかだ。
 こんなことでは、北条軍に向けられている刃(やいば)が、いつ自分に向けられるかわからぬ、と資頼は疑心暗鬼になり、夕方、わずかな側近だけを引き連れて城から逃げ出した。置き去りにされた者たちは、門を開いて氏綱を新たな主として迎え入れた。
 この岩付城攻防戦は、北条軍が戦いで奪い取ったというのではなく、言うなれば、自落のようなものであったし、代々、北条氏が得意とする調略が最も効果を発揮したとも言える。
 岩付城に入った氏綱は論功行賞を行い、渋江三郎を城主に任じた。年貢の取り立て方など、伊豆や相模(さがみ)でやっているのと同じやり方に改めるように指示した。すでに江戸城周辺では行っており、それまでよりも負担が軽くなったので、農民たちには大歓迎されている。逆に豪族たちの取り分は減るわけだから、中には北条のやり方に不満を持つ豪族もいないではないが、農民たちが「小田原さま」に絶対的な忠誠を誓っている以上、どうにもならないのであった。
「農民さえ味方にしてしまえば、その土地を末永く支配できる」
 というのが宗瑞から氏綱に引き継がれた北条氏の信念なのである。
 様々な仕置きを済ませて、九日に氏綱は江戸城に帰った。
 氏綱が去るのを待っていたかのように、朝興が河越城から出てきた。三千ほどの兵力で岩付城を攻める構えを見せたが、渋江三郎が万全の備えで待ち受けているのを知って、さっさと引き揚げた。
 三月になると北条軍は葛西(かさい)城を攻めた。江戸城の北東に位置する城である。このときも朝興は援軍を出さず、葛西城を見殺しにした。
 葛西城、蕨(わらび)城、岩付城という南北に連なる三つの城を手に入れたことで、下総(しもうさ)と武蔵の国境地帯が北条氏の支配下に入り、氏綱は東と南から河越城の朝興を圧迫することが可能になった。
 氏綱は虎視眈々と河越城を攻める機会を窺っている。すぐに動かなかったのは武田信虎と山内憲房を警戒したからだ。信虎と憲房の助けがなければ、朝興はさして手強(てごわ)い敵ではない。
 葛西城を落とした五日後、氏綱のもとに朗報が届いた。
 憲房が上野(こうずけ)の平井(ひらい)城で死んだというのである。享年五十九。
 戦がうまく、政治力にも長(た)けた憲房は氏綱にとって手強い敵であった。かつて宗瑞ですら、権現山(ごんげんやま)の合戦で憲房に敗れているのだ。
 憲房には五郎丸という子がいる。自分の通称である五郎の名をわざわざ幼名として与えたというのは、
「この子がわしの後を継ぐ」
 と公言したようなものであった。
 すんなり五郎丸が憲房の後を継ぐことができれば、山内上杉氏の結束が乱れることもなかったであろう。
 しかし、そうはいかなかった。
 五郎丸は憲房が老いてから生まれた子で、まだ三歳の幼児にすぎなかったからである。
 太平の世であれば、幼児が当主となっても、重臣たちが支えていくことで特に問題もない。
 が......。
 世は戦国である。
 弱肉強食、食うか食われるか、いつ誰に寝首を掻かれるかわからない時代なのである。
 当主がしっかりしていなければ、たちまち強国の餌食になるだけだ。
 憲房には養子がいる。中年になっても男子に恵まれなかったので、古河公方(こがくぼう)・足利高基(たかもと)の四男、賢寿王丸(けんじゅおうまる)を養子にもらい受けたのである。
 賢寿王丸は二十一歳の青年で、憲寛(のりひろ)と名乗っている。
 憲房が五郎丸に後を継がせたかったのは周知の事実だが、幼児には無理だということになり、憲寛が後を継いで、関東管領(かんれい)となった。
 山内上杉氏では、代替わりするときに家中が乱れ、時には敵味方に分かれて武力衝突することさえある、というのが定番になっている。
 今回は、そこまでひどい事態にはならなかったものの、将来に火種を残したことは確かである。
 古河公方家から来た憲寛が当主となったことで、公方家からついて来た者たちや、憲房から遠ざけられていた者たちが力を持つことになるが、それは憲房の側近たちが力を失うということである。彼らがいつまでもおとなしくしているはずがなかった。五郎丸が成長するのを待って、憲寛から家督を奪い返そうとするのは明らかである。いずれ内紛が起こるのは間違いないのだ。
 笑いが止まらないのは氏綱である。どう転んでも、氏綱にとっては悪い話ではないからだ。
 誰が後を継いだとしても、憲房よりも手強いはずがない。憲寛は青年とはいえ、これまでまったく名前が知られていない。政治においても軍事においても何の経験もないのである。
 もし憲寛が賢ければ、家中をまとめることに専念し、無謀な外征を控えるであろう。愚か者であれば、見栄を張って朝興に力を貸そうとするであろうが、そうなれば、両上杉を一気に叩き潰す好機が氏綱に巡ってくることになる。山内上杉を叩けば、北条氏の勢力圏は武蔵から上野にまで拡大することになるのである。
(まずは河越城よなあ)
 憲房が死んだことで、扇谷上杉氏の本拠・河越城を攻略する機は熟した、と氏綱は判断した。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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