北条氏康第三十二回

 小太郎と四郎左が言った通り、夜半過ぎから雨が降り始めた。
 夜明け前、北条軍は武田軍の陣地に忍び寄り、一斉に鬨(とき)の声を上げた。叫び声を上げながら、棒で木を叩く。それに驚いて馬たちがいななく。
 一千の北条兵が騒ぎ立て、数百の馬たちがいななくのだから大変な騒ぎである。
 武田軍は混乱した。
 その混乱に輪をかけたのは、
「敵が来た! 小田原勢だ、小田原勢だ」
「一万もの大軍だというぞ」
「皆殺しにされる」
「逃げろ、逃げろ」
 という叫び声であった。彼らは野良着をまとった北条兵で、夜陰に乗じて武田の農民の中に紛れ込んだのである。合戦することなく武田軍を追い払うという、小太郎が立案した作戦計画のひとつである。
「ふんっ、氏綱が出てきたか。ならば、引き揚げだ。食い物も奪ったし、扇谷上杉への義理も果たした。長居は無用。国に帰るぞ」
 本気で北条軍と戦うつもりはなく、いつでも帰国できるように支度を調(ととの)えていたから、信虎の行動は素早い。夜が明けると、周辺に武田軍はいなかった。雨のおかげで村が焼かれることもなかった。
「何だか肩透かしを食わされた気もするが、まあ、合戦などしない方がいいに決まっているからな。おまえたちのおかげだ。御屋形さまに申し上げて何か褒美をもらってやろう」
 十兵衛は上機嫌である。
「その褒美、この場でいただけませんか」
 四郎左が言う。
「何がほしい?」
「この馬をいただきたいのです」
「馬がほしいのならば、小田原に戻ってから、もっといい馬を選んでやろう」
「小田原には戻りません」
「もしや......」
 小太郎がハッとする。
「ここから旅に出る。お別れだ」
「何も今でなくても......。小田原に戻ってからでは駄目なんですか」
「小田原は居心地がよすぎる。あそこに戻ってしまうと、ずるずると旅立ちを先延ばしにしてしまいそうだ。だから、ここで旅立つことに決めた」
「止めても無駄ですか?」
「黙って見送ってもらえるとありがたいな」
「......」
「小太郎、行かせてやれ。こいつにも何か考えがあるのだろう」
「十兵衛さま、小太郎をお願いします。軍配者としては一人前でしょうが、まだまだ人としては甘いところがあります。特に金石斎(きんこくさい)には注意して下さい。小太郎を亡き者にしようと企んでいますから」
「心配するな。そんなことをしたら、わしが金石斎の首を刎(は)ねてやる。小田原に戻ったら、ちょっと脅かしておこう」
「そうして下さい」
「ほら」
 十兵衛が自分の刀を差し出す。
「持っていけ。餞別(せんべつ)だ。一人旅は危ないぞ。刀も必要だ。食えなくなったら売ればいいしな」
「ありがたくいただきます」
「四郎左さん......」
「そう呼ぶのは、これが最後だぞ。おれは山本勘助(かんすけ)だ。どこかの国の軍配者になり、おまえや養玉(ようぎょく)と戦場で相見(あいまみ)える日を楽しみにしている」
「......」
 小太郎の目が潤む。
「泣くな。こっちも悲しくなる。それでなくても不細工な面なのに、これで泣き顔になったら化け物だ。そんなひどい顔を見せたくないから、もう行くよ」
 四郎左は馬首を返すと、
「達者でな、小太郎!」
 そう言い残して馬の腹を蹴る。
「四郎左さん......」
 涙で曇る目で、小太郎は四郎左の後ろ姿を見送る。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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