北条氏康第二十七回

 大晦日の夜、
「初日の出を見に行こう」
 と、四郎左が小太郎を誘った。
 二人は徒歩で海に向かう。海岸に着くと、砂浜に並んで坐る。
「やっぱり、冷えますね」
 小太郎が襟を集めながら肩をすくめる。海から吹いてくる風が冷たいのである。
「飲むか?」
 四郎左が懐から瓢箪(ひょうたん)を取り出す。
「酒ですか」
「温まるぞ」
「わたしは結構です。せっかくの初日の出を酔った目で見たくありませんから」
「おかしなことを言う奴だ」
 四郎左がごくごくと酒を飲む。
「ふーっ、温まるぞ。臓腑に染み渡るようだ。本当にいらないのか?」
「いりません」
「それなら、これでも食えよ」
 四郎左が小太郎に右手を差し出す。掌(てのひら)に炒(い)り豆が載っている。
「用意がいいですね」
「金石斎の屋敷にあったものをもらってきただけだ。黙ってだが」
「ありがとうございます」
 小太郎が炒り豆を受け取る。
「北条の若君は臆病だな」
「伊豆千代丸さまのことですか?」
「そうだ。これは悪口ではないぞ。褒め言葉だ」
「どういう意味でしょう?」
「一騎駆けの武者が臆病では話にならぬが、総大将は臆病なくらいでちょうどいい。なまじ血の気が多かったり勇猛だったりすると、一度の負けですべてを失い、多くの者を死なせることになる」
「兵法の話ですか?」
 四郎左は伊豆千代丸にコマを使った図上演習を指導しているのだ。
「たとえコマを使った遊びに過ぎないとはいえ、やはり、そこには人の性格が滲み出るものだ......」
 古今の有名な合戦を下敷きにし、その合戦が行われた地形図の上で双方が順番にコマを動かして図上演習を行う。伊豆千代丸と平四郎(へいしろう)が二人ひと組で四郎左と戦ったり、時には、伊豆千代丸と平四郎が戦ったりする。決着がついてから、最初に戻り、どういう意図でコマを動かしたのか、四郎左が伊豆千代丸と平四郎に質問し、二人がそれに答えるという形で講義が進む。その意図が理に適(かな)ったもので、兵法として間違っていなければ四郎左は誉め、そうでなければ厳しく叱る。
 四郎左が言うには、伊豆千代丸のやり方は大勝を目指すのではなく、小さな勝利を積み重ねていくというもので、何よりも兵の損失を惜しむ。
 だから、伊豆千代丸の軍勢は地形図の上を敵から逃げ回っているように見えるのだ、という。
 一方、普段はおとなしそうに見える平四郎は意外にも大胆な奇襲を好み、敵の大将を討ち取るためであれば味方の損失を少しも怖れないのだ、という。
「どちらのやり方が正しいというわけではない。時と場合によっては、どちらも正しいだろうし、どちらも間違っている」
「その場その場で柔軟に対処しなければなりませんからね」
 小太郎がうなずく。
「ただ、若君のやり方は、どんな場面であっても負けにくいやり方だ。勝つための戦い方というより、負けぬための戦い方という気がする」
「そう指導したのですか?」
「違う」
 四郎左が首を振る。
「おれは何も教えていない。最初から、そんなやり方だったのだ。そういう意味では、生まれながらにして大将の器が備わっていると言えるかもしれぬ。平四郎は大将にはなれぬな。その代わり、大将をよく支える家臣になるだろう」
「それでいいではありませんか」
「その通りだ。あの二人に勝千代が加わったら、どんな戦い方をするだろうな」
「勝千代ですか......。平四郎以上に大胆で勇猛かもしれませんね」
「ふんっ、そうだとしたら、あまり長生きはできぬことになる」
 四郎左が肩をすくめ、ぐいっと酒を呷る。
「年が明けると、おまえはいくつになるんだ?」
「十九です。四郎左さんは?」
「おれは二十五になる」
「早いものですね。初めてお目にかかってから、もう五年も経つなんて」
「五年前、おれは虫けらのような人間だった」
「わたしと十兵衛(じゅうべえ)さまが今でも生きていられるのは四郎左さんのおかげです。虫けらなんかじゃありませんよ。あの頃から四郎左さんは常人とは違う何かを持っていました」
「その後で今度は、おれがおまえに命を救われた」
「あのときは驚いたなあ。自分の顔に自分の手で毒を塗りたくるんですからね。常人にできることじゃありませんよ」
「虫けらのまま死にたくなかったから必死だっただけだ。おれはな、小太郎、人の一生は長くても五十年と考えている。『敦盛(あつもり)』にあるだろう。『人間(じんかん)五十年、化天(げてん)のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享(う)け、滅せぬもののあるべきか』とな。五十年の寿命だとすれば、もう半分しか残っていない。それなのに、おれは今も虫けらのままだ。この世に生まれてから何事も為しておらず、世の者たちは誰もおれの名を知らない」
「そんなことはありません。少なくとも、ここに一人、四郎左さんを知る者がいます。四郎左さんに命を救われ、足利(あしかが)学校で学びを共にした者がいます」
「おまえはいい奴だなあ、小太郎」
 四郎左がしみじみとつぶやく。
「親兄弟が死んでから、おれに優しくしてくれたのは勘助(かんすけ)とおまえの二人だけだ。でも、勘助にだって嫌なところはあった。おれに施しをすることで、勘助はおれを見下すことができた。腹を空かせた野良犬に食い物を恵んでやるような気持ちだったんだろう。勘違いするなよ。それを責めているとか、勘助を悪く言うとか、そんなことじゃないんだ。お釈迦様じゃないんだから、誰にだって、そういうところはある。勘助には感謝している。山本勘助と名乗っているのは、おれと勘助の二人分の人生を生きていこうという気持ちからだ。百姓どもに騙されて殺されて、さぞ無念だったろうからな。だけど、おまえは勘助とも違う。おれに親切にしても優しくしても何もいいことなんかないのに、いつもおれを助けてくれた。それでいい気持ちになっているという感じでもない。おまえのような奴がいるのが信じられない。さっぱり、わからない」
「それ、誉めてるんですか?」
「そうだ。でも、おまえのようなお人好しが軍配者になれるかどうか心配だな」
「ひどいなあ、やっぱり、誉めてないでしょう」
「戦に勝つためなら、どんな汚い手も使うという輩(やから)が多い。兵法とは名ばかりの卑劣な手を使う連中ばかりといっていいほどだ。そんな連中と渡り合えるのかと心配でな」
「腹黒い人間ではないと軍配者にはなれないということですか?」
「金石斎を見ればわかるじゃないか。お......」
 四郎左が背筋を伸ばして前方を見遣る。水平線が仄かに青白くなってきた。
「夜が明けるぞ」
「はい」
「来年は、どこで日の出を見るのかなあ」
「気が早いですね、四郎左さん」
「おまえと敵味方に分かれていなければいいが」
「え」
 小太郎は四郎左の横顔を見つめる。
 四郎左は口を真一文字に引き結び、瞬きもせずに初日の出を見ている。その目が微かに潤んでいるように見えたが、なぜ、四郎左の目に涙が滲んでいるのか、小太郎にはわからなかった。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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