アスリーツ六 夏の向こう側で(一)

 夏の風が吹いた。
 熱を存分に含んで、肌を刺す。
 沙耶(さや)は深く息を吸い込んだ。肺の奥まで熱い風が入り込んでくる。
 軽い目眩がした。いや、目眩というほどのものではない。ほんの僅(わず)か身体が浮くような、周りの風景が微かに色を濃くするような、そんな感覚がして、鼓動が速くなる。
 あたしが、全国大会に出場......。
 胸の中で呟いていた。県予選が終わってから、何十回となく呟いてきた。
 あたしが、全国大会に出場できる。
 何度呟いても、実感できない。信じられない。戸惑いさえ覚える。

 420・6
 それが、県予選での沙耶の得点だった。
「去年の予選の最高得点と同じだよ」
 そう教えてくれてから、紅実子(くみこ)は息を一つ、吐いた。
「全国トップレベルの数字でもあるよ。結城(ゆうき)さん」
「はい」
「もう、あんた、めちゃくちゃすごいわ」
 バシッ。
 背中をしたたかに打たれた。思わず身を縮ませる。
「ほんま、すごい。最高やが」
 バシッ、バシッ、バシッ。
 連打される。かなりの力だ。骨まで響く。
「いたっ、キャプテン、沢井(さわい)さん、止めてください。痛いです。マジで痛い。ほ、骨が折れます」
「え、それは困るわ」
 紅実子は真顔になり、手を引いた。
「せっかく、うちの学校から全国大会に出場できる選手が現れたっていうのに、骨折ったりしたら大変やわ」
「キャプテン、まだ、次の射群が撃ち終わってないんです。結果が出てからじゃないと、出場できるかどうか言えんでしょう」
「もう、結城さん、アホやの。謙遜も過ぎるとただのアホやで」
 紅実子がけらけらと笑う。珍しく興奮していて、その興奮を隠そうともしていない。
「この数字で全国、行かれんて、広島どんだけのレベルよ。結城さん、大会出場どころじゃないよ。全国一位、優勝を狙えるで」
「はあ......」
 沙耶は曖昧に頷いただけで、笑いも泣きもできなかった。なにが起こったのかよく掴(つか)めていない。それが正直な状況だ。
 調子は良かった。
 第二射群での試合だったが、その前、第一射群での大明(たいめい)学園の結果はさんざんなものだった。400点以上を記録できたのは、沢井紅実子ただ一人、他は390点にも届かない成績だったのだ。

「高校射撃の締めくくりじゃったのに。もう、自分で自分が情けなくてたまらんわ......」
 美優(みゆ)はそこまで言って言葉を詰まらせた。両手で顔を覆ってしゃがみこむ。指の間から嗚咽(おえつ)が零(こぼ)れ落ちた。
 あ......。
 鮮やかによみがえる記憶がある。
 去年の全国大会、バスの時間に急かされて競技場を出る直前、見たのだ。一人の選手が自分の腕に顔を埋(うず)め、泣いていたのを。顔はわからなかった。濃紺の半パンを穿(は)いていたことと、背中が小刻みに震えていたことだけがしっかりと心に焼き付いている。
 先輩の姿がその記憶に重なった。
「美優、まだ、試合は終わってないんよ」
 紅実子が美優の腕を引っ張る。
「あんたは大明の副キャプテンなんやからね。忘れんといて」
「副キャプテンでも副船長でも、情けない時は情けないし、悔しい時は悔しいわ」
 立ち上がり、美優が洟(はな)をすすった。
「そこまで下手な冗談が言えるんやったら、大丈夫やな」
 紅実子がにっと笑う。その表情を引き締めて、沙耶を呼んだ。
「結城さん」
「はい」
「第二射群の試合が始まるよ。行って」
「はい」
「結城さーん」
 美優が不意に抱き付いてきた。
「あたしの仇(かたき)取ってきてな。負けたらいけんよ」
「もう、ちょっと美優。ええかげんにしときぃよ」
 紅実子が美優を引きはがす。
「これから試合に臨もうかっていう一年生に、三年がプレッシャーかけて、どうするの」
「大丈夫。結城さんなら、プレッシャーがパワーになるんじゃから。ええね、先輩からのお願いやで。すかっと、ぶち抜いてきてや」
「ぶち抜くんですね」
「そう。標的も他の選手もぶち抜いてな。すかっ、すかっやで」
 美優がこぶしを握り、ガッツポーズを見せた。紅実子が苦笑いの表情になる。
「美優、言ってることが意味不明。レーザーライフルでどうやって、標的ぶち抜くんよ」
「気合よ、気合」
 美優はもう泣いていなかった。涙の痕の付いた頬を持ち上げ、笑みさえ浮かべていた。
「気合だけで勝てるんなら、あんた、優勝できるが」
「紅実子、きつい。あたし、今、へこんでるんやからね。ちょっとは労(いた)わってほしいわ」
「あんたは駄目や。労わったらすぐに図に乗るキャラやから」
「うわっ、ほんまきっつう。当たってるだけに、きついわぁ」
 先輩二人のやりとりに、沙耶は思わず笑ってしまった。笑った後で、笑わせてくれたのだと気が付いた。
 笑うと力が抜ける。初めて臨む本格的な試合を前に、緊張しきっていた心身が、少し緩んだ。楽に息ができる。
 アナウンスが、第二射群の試射が間もなく始まると告げる。
「行ってきます」
 紅実子が大きく頷いた。
「うん、行っといで」
「すかっとぶち抜くんやで、結城さん」
「はい」 
 射座(しゃざ)に向かう。足を踏み出す度に、周りのざわめきが遠ざかる。音も声も薄れ、人は淡い影のようになる。感覚が鈍くなっていくようだ。曖昧な世界の中に、自分一人が肉体を持って立っているように感じるのだ。
 練習のときは、ほとんど現れない。ただ、試合形式になると別だ。沙耶の感覚はとたんに鈍麻してしまう。
 無音でも静寂でもない。周りが闇に閉ざされるわけでも、透明になるわけでもない。ただ、薄っぺらで作り物めいてくる。輪郭が崩れて、ぼんやりとしてしまう。
 自分と標的とライフルだけがリアルだった。手のひらに伝わる重さを心地よいと思う。関谷(せきや)第一との練習試合の後あたりから、ふっと覚えるようになった感触だ。どうしてなのか、わからない。
 嫌ではなかった。
 戸惑いはしたけれど、嫌ではなかった。今は、戸惑いもない。
 調子がいいんだ。
 自分に言い聞かせる。自分を信じる。
 あたしは調子がいいんだ。だから、ライフルと二人になれる。
 余計なものが薄らいでいけば、今、このとき、本当に大切なものだけが残る。

アスリーツ

画・丹地陽子

Synopsisあらすじ

結城沙耶は、中学2年で出場した全日本中学陸上広島県大会100メートルハードル女子決勝で転倒し、失意のうちに陸上部を退部した。親友の松前花奈に誘われ超進学校・大明学園高校へ進学し、射撃部に入部する沙耶。初めて構えるビームライフルの重さに驚き、個性豊かな先輩たちに励まされ、童顔の監督・磯村辰馬の指導を受けつつ、未知の競技に戸惑いながらも花奈とともに励む毎日だったが――。



(「アスリーツ」の一~四は、「小説BOC」の7~10に連載されました)

Profile著者紹介

1954年岡山県生まれ。「バッテリー」シリーズで小学館児童出版文化賞、『たまゆら』で島清恋愛文学賞を受賞。著書に「闇医者おゑん秘録帖」シリーズ、「ランナー」シリーズ、「NO.6」シリーズ、「ガールズ・ブルー」シリーズなど。近著に『ぼくがきみを殺すまで』『にゃん!』などがある。

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